だから昔話は著作権もありませんし原本もあるのかないのかわからないので、色々なヴァリエーションがあっても不思議ではないといえば、不思議ではないのです。
しかし、仮に桃太郎が鬼と和解する説が現代に存在するとしたら、ちょっと今までとは、派生のプロセスが違ってきます。
現代では、口頭で桃太郎を子供に聞かせる人もいるとは思いますが、基本は絵本だと思うのです。
そうすると、出版社が本を出しているので、内容は出版社が把握しているわけです。
急に内容が変わるということはまず、無いということです。
昔話はスピリチュアル的な『生き物』だった?
脱線しますが、そもそも昔話が口頭伝承だとすると、それって『生き物』みたいですよね。
どういうことかというと、誰かが脳内で構築した世界観を言語化して、そこで命が与えられて動き出すのです。
その物語が紡ぎだされる間こそが、僕たちに感動という名の影響力を与え確かに存在しているのです。
そして、物語が幕を閉じると、その物語の寿命は終わるのです。
もし、その物語を聞いた誰かが、別の誰かにそれを話した時には同じプロットであっても、新しい命が吹き込まれた、別の存在になるのです。
実は同じように思えても昔話というものは、似て異なる存在なのかもしれません。
その『生き物』を『世界』と捉えても面白いと思います。
そうすると、基本設定が同じ微妙に違った世界が、増えたり減ったりし続けているということですよね。
これって、俗に言うマルチバースですよね。
個人的にはこういうロマン溢れる解釈は大好物です。
意図的に改変された世界?
今まで桃太郎を出版したことの無い会社が独自展開の桃太郎を出版して、それが爆発的に人気になってしまったら、それが「今」の時代の主流になるかもしれません。
もし、そこで大幅に内容が変わっていたとしたらどうでしょうか。
いつの間にかストーリー展開が変化したのではなく、意図的に誰かが改変したということになります。
正確には出版社が、ということになります。
だとすると、気になるのが動機です。
わざわざ物語を改変する必要性です。
だって、今の今まで、同じ基本プロットで物語が伝えられてきたのに、何故改変するのでしょう。
何故『ドラゴンボール現象』させるのでしょうか。
もちろんこの話は都市伝説であることを前提とした仮説ですので、そこまで真に受けなくても大丈夫です。
この昔話の物語改変の奇妙さは、まさにここにあると思うのです。
自然な流れでマイナーチェンジを繰り返したりしてヴァリエーションが増えるのは不思議でもなんでもないのに、意図的に流れを変えてしまうという強引さが何とも言えない不気味さを演出している気がします。
新しい世界が構築されるという点ではマルチバース的ではありますが、特定の集団及び個人の思想が大きく含まれてしまうことと、本という形にする上で「その都度生まれ変わる」わけではなく、一定期間は少なからず、増え続けて持続されるという点も違って来ます。
僕はいろいろなヴァリエーションが増えるのは肯定派です。
ただ、出来れば『新解釈・桃太郎』とか『(社名)版・桃太郎』とか、違いが迷惑にわかるタイトルを付けてくれると良いのではないかと思うのです。
ただ、安易にヴァリエーションを増やすと「最初の作者の物語を通して伝えたかった本当のコト」はますますわかりづらくなってしまうので、できるだけ古いヴァージョンも残し続けて欲しいなと願ってやみません。
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