苦からの解放/「正見」てなんだ? 後編~梵字画家と歩く仏教小径

ひとりでは無理なようなら、いつでもどこでも呼びましょう! 私たちのブッダを!

【天才ユリウス・カエサルの正見】

『人間ならば誰でも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない』とは、かの有名なユリウス・カエサルの言葉。

ありえないほど多くの人、人種、国家、文化、歴史や宗教、法や組織をその眼で見続けてきたユリウス・カエサル。
共和制ローマの軍人・政治家としてその天才過ぎる才能をいかんなく発揮し、現在のヨーロッパの基礎を描いた人物としてあまりにも有名な彼ですが、天才過ぎてその言ってることが今ひとつわからーん!
現実って、私たちが見ているこの世界そのものでしょう? 目に見えているのに、見たいものしか見ていないって、どういうこと? みんな目に映ってるじゃん!

天才カエサルの言葉の意味を、わかったようでいてわかっていなかった私は、もうひとりの天才に助けを求めました。

ブッダ~、ちょっと来て~。助けて~。

 

【正見実践ステップ4:目を開けていても想像しているという自覚】

「目を閉じなさい。そして、想像するのです」

ふむふむ。了解です。
皆さんも一緒にやってみてくださいね。

自宅のリビングでも、学校の教室でも、公園のベンチでも、映画館でも、場所はどこでもいいです。
目を閉じた状態で、周囲の状況を想像してみてください。

人の気配はしますか。
近くに何がありますか。
何か音は聞こえてきますか。
風は吹いていますか。
匂いは感じますか。

そしてさらに、その周囲の状況について、具体的な部分を想像していきます。
近くにいる人は何人ですか?
それぞれ、どんな位置関係にいますか?
どんな服装をしていますか?
彼らは今、どんな表情をしていますか?
なぜ、どんな気持ちでそのような表情をしているのでしょう?
といった具合に。

目を開けることで、何人いるか、誰がいるか、どんな服を着ているか、といったことは確かめられますが、目を開けたとしても確かめられないこともあります。
なぜ、ここにいるのか。
その人たちは今、何を思っているのか。
どういった環境で育ってきたのか。
そして、これからどのように生きていくのか。

目を開けたとしても、確かめられることと確かめられないことが混在していますよね。
つまり「想像の部分」は、目を開けていても閉じていても、同じだけ存在しているということ。
「目を開けているからといって、見ていると思っているすべてが実際に存在しているものではない。かつ、肉体の目で見えないものの存在は、見ようとしなければ見えない」
この気づきが最初の一歩です。

 

【正見実践ステップ5:湧き上がる感情を観じ、手放す】

前回お話した、良くないものとして仕分けされ箱詰めされた感情は、どこに行って何をしているのでしょうか。

私たちの潜在意識の下の下、心の奥底にうずめられたそれらの感情は、似たようなシチュエーション、似たような相手、似たような言葉などに出会った時に、箱の中で騒ぎ始めます。
わけもなくイラっときたとか、どうしてもこの人には馴染めないとか、意味なく涙が出てきてしまうとか、モヤモヤした感じがぬぐえないとか……。
そんな風にして私たちの心を揺さぶり、「おーい、ここにいるよ~! 気づいてよ~! 癒されたいよ~」と主張するのです。

あ、ブッダ。なんですか?

「居るな、と思ったらすぐ観じなさい」

わかりました!
先程のような感覚が湧いてきたら、箱詰めされた感情が表層部分近くまで浮上してきた合図! 良いとか悪いとかジャッジすることをやめて、その感情がただそこに「ある」「あった」と気づいてあげましょう。
そして、許し、手放せばいい。
許し、手放すことがひとりでは無理なようなら、いつでもどこでも呼びましょう! 私たちのブッダを!

 

【正見とは、真実をありのままに見ること】

さて、癒されないままの感情を抱きながらこの世界を見ていると、先ほどの「想像の部分」にこの感情が映し出されるようになってしまいます。

相手はただただ質問を投げかけてきただけなのに、責められている感じがして言い訳をしたくなってしまったり、逆に攻撃的な態度で応じてしまったりしたことはありませんか?
または、昔うまくコミュニケーションを取れなかった相手にそっくりな感じの人に出会うとつい、過去のパターンを解析し、それを元に言葉を選んだり行動を類推したりといった経験はありませんか?

知らず知らずのうちに、過去を現在に持ち込んであれやこれやと対処法を考えだしてしまう私たち。
今現在のその出来事の真実の姿は、決して過去の出来事と同じであるはずはないのに。
過去を当てはめてしまうことより、現在の真実の姿をありのままに見ることを選びましょう。

正見とは、真実をありのままに、自分自身に対しても、相手に対しても、出来事に対しても、ジャッジを入り込ませず想像の部分をそぎ落として物事を見るということなのです。

さて、すべてのもととなる正見を理解したら、次回は、この正見を実践するにあたり必須となる「正定(しょうじょう)」についてです。

 

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