■カルマの定義とは?~悪いカルマはそもそも存在しない! すべてのバラにトゲがある理由~part.3~インド生活『村上アニーシャのアーユルヴェーダ』vol. 154

9月

まるで人間は、「愛される必要がある」という、他者の承認から満足を見つけるというこのパターンを、決して破ることがないかのように生きます……。

誰かを愛したら、その見返りに相手からも愛されることを大いに期待し、その見返りを引き出すための行動に出ます。

そしてこれはよく、親が子供に対してやることです。
親はよく子供の誤った行動を怒ります。

しかし。
実はこれは、私たちの本質ではない、とドクタージョンはいいます。

親が子供に向けるこういった怒りはしばしば、子供たちが親の欲望に従って行動するようにするための微妙な操作の形式であり、
これは、「自分に正直に行動している」とはいえないのです。

ヴェーダ心理学では、ニーズを満たすため、あるいは他人の承認を求めるために行動を変えるこのプロセスを、「客観的照会」と呼んでいます。

一方、本当に心底、あるいは愛情に満ちた本質に基づいて行動しているときを「主観的照会」と呼ばれ、これをしているとき私たちは、自分の本質的な部分から行動しているといえます。

 

★誰かから投げ矢がとんできたときの対処法

ここで、ドクタージョンがすすめる「他人から投げ矢への対処法」をご紹介します。

例えば、誰かが私たちに意地悪なことをした(投げ矢がとんできた)としましょう。
このとき、3つの反応ができます。

1.意地悪を仕返す。
2.放っておく(侮辱を甘んじて受け、相手にしない)
3.その人が意地悪する唯一の理由を理解する(その人は過去に何らかの形で傷つけられた経験があることに気づく)

もし誰かに傷つけられたからといってその人を傷つけ返す(仕返し)するなら、その人はその後もずっと意地悪を続けるかもしれません。

そして、昔バラにはイバラがなく、身を守るために誰にも気づかれないだろうとトゲを進化させた、と考えてみるのは合理的なことです。

実際、ママやパパから承認を得ることができず、トラウマを受けた子供たちはおそらく、こういったトゲを育て意地が悪くなることはよくあることです。
そして、自分自身を保護する手段として感情的な投げ矢を投げます。

誰かにトゲトゲしい行動を向けてこられた時、そのまま反応し返したり放置したり距離をとったりする(客観的照会)と、その人は投げ返された矢によってさらに傷つき、その後も矢を投げ続けることでしょう。

そういった人たちからとんできた投げ矢から経験する痛みにそのまま反応する代わりに、その人が傷ついていることを理解し、私たちの本質的な部分(思いやりのある性質)に基づいて太陽が地球に光を当てるように行動すれば、その悪循環は断ち切れ、さらに見返りに何かを受け取ることを期待せずに、私たちの本質に基づいて行動するとき、私たちは風雨に耐えられるようになります。

これは、私たちは天気が良い日だけで幸せになったり、悪天候になったからといって必ずしも悲しくなるわけではなくなります。つまりは耐候性を持てるようになります。

これは、「太陽が地球に光を当てていて、花が咲いているかどうかはまるで気にかけていない」のと似ています……。

行動の結果に結びつくのは、心の性質です。

しかし、私たちは、心以上の存在です。

客観的照会ではなく、主観的照会を含む行動ステップを常に模索し、「何もしない」ことの優しさを味わいながらすべてを達成すること。

……カルマとは単に、「自分自身」であることで自分を不幸にしている行動パターンをやめるための機会なのです。

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9月

(インドはたくさんの賢者を生み出してきた国)

日本生まれの私がインドで長い間暮らしていた中でよく思ったことは、日本の常識から考えたらインドの人たちは一見、「かなりの自己中」に見えるのですが、基本的に他人の目を気にするかどうかという点において、素晴らしく気にしない人たちでもあり(笑)、自分が自分でいることを当たり前のように許してくれる、寛大な国のように思えます。
そしてこの独特さは、世界を見回してみても、おそらくインドだけなのかもしれません……。

 

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(トップ画像/バラはひっそりとトゲを進化させてきた)