「義務」「犠牲」と「ギフト」「アディクション」との関係 PART.4

エゴのしたいことでないものをし続けるのは、基本的に疲れませんし、エネルギーは満ちていきます。
エゴ活動が多かったとき、体本来の健やかな声に耳を澄まして、それに従えるように、日々その環境を整備しておくことが大切だともわかりました。

人の役に立たないと、自分のポジションがない。
という根拠から、世話を焼きすぎれば、ほとんどの場合、なりたくなかった孤独に導かれていきます。
孤独を嫌っていた上に、孤独が来るのですからそれはもう耐えられない状態でしょう。

つまりその環境因子の一つには、孤独について健やかな認知をしておくこと、そしてトレーニングをしておくことも重要だとわかり、家で一人ヨガや瞑想をする事を増やし、そしてそれをもっと意識化して行うことにしました。

犠牲的な時、必ず何か引き換えに欲しいものがあるのです。
そこに勇気を出して、そのエゴのふたを開けれるかどうか。
仏教の教えという「正しさ」のカーテンを隠すエゴのトリックモーションを、私達は見抜いていくことが出来るかどうか。
それがアディクションの沼から這い出す一つの課題だと、私の経験から感じております。

そして、この沼から這い出し、真の自分を補充する為に時間と労力をつぎ込むこと。
そしてあふれるほど満たされて初めて、そのあふれてしまったエネルギーを人に何か奉仕していけばいいと思います。
義務、犠牲の行為から、他人だけでなく、自分へのギフトとなるような行動が増えますように。

ただし!これは真面目すぎる、素直すぎる、優しすぎる方の為のアディクション回避方法です。
ただただ貪るように、人のものに執着してしまう人のアディクション回避方法ではありませんので、あしからず(笑)