「義務」「犠牲」と「ギフト」「アディクション」との関係 PART.3

ふと母親がよく使う言葉が頭によぎりました。
子育ては産んだ限り育てるのが義務。
税金を払うのは義務。
全てにおいて、「~しなければならない」が多く、最後に「義務」という言葉でまとめるのですが、義務という理由だけで人に何かしたら、思い通りの答えが返ってこない時の、不平不満、苛立ち、ジレンマの凄さ。
これも人に尽くしている姿なのですが……。された方はある意味ちょっと荷が重いのです。向こうの思う通りのことを無意識に返さないと……とどこかで感じた状態をひきずったまま向き合わないといけないのです。

自分のエネルギー、つまり余裕がないのに、人の為に何か義務的にすることは、犠牲的にすることと変わりません。
犠牲的だと、継続できません。ジリ貧です。そのマイナスを埋めるために、アディクションになりやすいんだと感じました。
犠牲的なことは、自分のありのままの感情や体の状態を無視して行う状況です。エネルギーの使い果たしです。それらを補給するために体に優しいことを出来ればいいのですが、普段から自分の体の声を聴かず、エゴの声だけに振り回されていたら、エゴが喜ぶものに暴走する傾向を見出しました。

私の聞いていた声は、体の声でもなんでもなく、エゴの声を聴いて活動していたことことにも気づきました。どんなに体にいいと思ってヨガをしても、マクロビオティックをしても、嗜癖が止まることはなかなか難しかったのです。

私はこれをトリックモーションと呼んでいます。そしていつも今感じていることはトリックモーションか、そうでないのか?という問いかけを増やし続け、その違いをある程度見極めることが出来るようになったのですが、その基準の一つが義務感、犠牲的な行動が絡んでいないかどうか?をテストチェックに取り入れたことです。

自分が結果に囚われず本当にしたいと判断した際は、やります。そしてその道中にも義務的になっていないかどうかを問いかけることを忘れないようにしています。

~つづく~

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