ココロセラピストが語る!? ウズラの話題は瞬く間に消えた ~ 話題は消えても考えることはやめないで ~

ウズラ

ウズラの卵事件。

もう、すっかり過去の話となってしまったウズラの卵事件。ウズラの話を引っ張ることが目的ではない。だが、この事件をきっかけに、改めて自分の中でいろいろ思うことがあったので、どんな事件だったか、簡単に振り返ってみる。

「給食のウズラの卵がのどに詰まって窒息したらしい。危ないからウズラを給食に入れないようにしよう」という事件だ。事件、というほどではにかもしれないが、大きな問題ではあると思う。何故、この話題を敢えてまた引っ張り出したかというと、根本的な問題はなんでもかんでも『責任擦り付け合戦』になってしまうことが問題だよね、と警鐘を鳴らしたいからだ。

前回もお話ししたが、親や教師の指導が悪いわけでも栄養士や他の人が悪いわけでもない。当然、子どもが悪いわけでもない。ただ、軽視すべき問題ではないことも事実で、みんなが、特に大人がそれぞれ、安全に職を楽しむ方法を意識するのがベターという話だと思うのだ。そして、良いアイディアが浮かんだら、それこそネットで情報発信するなり、世間話に盛り込んでみたりすれば良いのだ。

誰かを陥れたり、ディスって喜んだりするのは、ちょっと情けない。そして、責任を自分以外の何処かに押し付けて、自分は上から目線になるのも何かが違う。なんでもかんでも規制すれば良いわけでもない。そういうことを、ぜひ考えて欲しいと思う。

また学校の話をするよ。

最近、感じているのが『小1の壁問題』。ざっくりいうと、保育園児や幼稚園児が小学生になると、ガラっと環境が変わって大変だ、という話です。かなりアバウトな説明になってしまったので、興味がある人はgoogle先生に聞いてみてください。

特に共働きの家庭では、小さい子にひとりでお留守番させられないよね問題というのがある。じゃあ、片親だけ会社に行って、片親は家事に専念したとして、それで生活費が維持できるのか問題も出てくる。シングル家庭だって多いのに、どうしたら良いのか、という話だ。

気持ちはわかるのだが、とても不思議に感じることがある。「それは学校の管轄だよね」「もっと早くから学校開けてよ」「学童の受け皿をもっと広くしてよ」「子どもが行きたくないと言わない、ドキドキワクワク楽しいサービスを提供してよ」「おやつは栄養価が…」という意見が学校や学童に殺到するのだ。

というと、まるで僕が「それって親の責任じゃん?」と言っていると勘違いされるかもしれない。でも、必ずしもそうは思っていない。ただ、これこそウズラの卵と同じで、責任を誰かに押し付けて自分には責任がないと言いたいだけにも思える。

学校や学童系サービスが本当に子どもにとって良いところかどうかは僕には何とも言えない。地域格差や運も関係するだろう。まあ、税金で運営されているサービスであれば、公務員は国民全体の奉仕者なのだから、「さぁ、もっと奉仕しなさいよ」と言いたくなる気持ちはわかる。

でも、無駄に給料を取っているなら別として、必要以上に労力や気力を搾取されて良いかというと決してそうではないことも察してあげたいところだ。特に学童系は公務員ではないので、想像以上に待遇が悪い。それこそボランティアに近い給与で労働力は半端ない。

何が言いたいかというと、他の視点、他の意見はないのかな、ということだ。たとえば、自分の勤務先が、ちゃんと子育てに配慮された会社かどうかも大事ではないだろうか。そこが軽視されているなら、それこそ自分自身が一社員として、よりよい会社を目指すために、会社に意見してみてはどうだろうか。

もし、勇気をもって、困っている人たちがみんなで各々の会社に本気でぶつかるなり、労働組合で議題に挙げてもらうなりすれば、もしかしてもしかして、学校や学童に全責任を押し付けなくても済むのではないだろうか。

というと、学校や学童にまるで責任がないみたいかのように思われてしまうかもしれないが、そういうことでもなくて。どっちにも、同じくらいの熱量で意見してみたらどうだろうかと思うのだ。

はたらきたくない若者。

もしかしたら昔もかもしれないが、最近特に労働人口が減っているのか、はたらきたくないと思う若者が増えたとか、出世に興味がない若者が増えたとか、そういう話をよく聞く。これも、さっきの話と同じだ。たとえば、朝早くて帰りが遅くなる会社に入ったら、それこそ小1の壁に激突するのは目に見えている。その時点で、その会社に魅力は感じないと思う。

頑張れば頑張るほど、言葉だけは褒めてくれるが、変に期待され、仕事量だけ増やされて給料が増えなかったら、誰が頑張ろうと思うのか。人件費をケチりすぎるから、無駄に一人当たりの仕事量が増えるわけだし、離職率も上がる。それ以前に求人をかけても誰もエントリーしてくれないのだ。「労働者なんて、生かさず、殺さずがいいんだよ。ギリギリの安値で最大限まで働かせよう」なんて、思っている人がどのくらいいるか知らないが、本当に存在するなら、その考えを改めた方がよくないだろうか。

やりがい詐欺はもう時代遅れなのだ。QOLが上がらないことが確定しているのに、何故そこで働こうと思えるのだろうか。満たしたいのは社会的欲求じゃない。まずは生理的欲求なのだ。「俺、〇〇社勤務なんだぜ」的な肩書や「私、プロジェクトマネージャーなの」とか、そんな名前だけかっこよくて中身のないものに価値はないのだ。履歴書がちょっとかっこよく見えるだけでQOLが高いかどうかは別なのだ。

なので問題なのは最近の若者、というわけではないことも抑えておきたい。魅力ある会社を目指そうじゃないか、と思う。だからといって若者が無気力で何もしないかというとそうでもないと僕は思っている。お金が少なくても人生を楽しむ工夫はしていると思う。若者は若者で従来とは違う何かを考え、生み出し、どんどん次の時代に進んでいっている気もする。別に、若者が必ずしも間違えているわけでもなければ、人生を舐めているわけでもないと思う。

自分も含めて古いタイプの人間は変に真面目過ぎて社畜化する傾向がある。心身ボロボロで会社は儲かっても自分は儲からない。そんなことをずっと続けている姿を若者に見せても、カッコいいと思われるどころか、正直なところ「この人は、何を頑張ってるんだろう?」と首を傾げられて最終的には「よくわからないけど、割に合わなくても勝手に頑張ってるから、俺は定時に帰ろう」なんて思われてしまっても仕方がない気もする。

まさにその通りなのだ。僕たちが努力すべきはエンドレスなタスクではなく、QOLを向上させる努力なのだ。仕組みを変えようという発想が浮かばない時点で終わっているのだ。社畜になれるほど頑張れるなら、会社の偉い人を敵に回しても戦えるよね。小1の壁もそう。正当な意見どころか理不尽なクレーマーと化してでも学校に我が子を押し付けたいと思う気迫があるなら、その気迫を会社に向けられるよね。

じゃあ、なんで、それをしないのか。自分は匿名性を保ったまま、当事者にならずに、誰かの責任にしたいから、だよね。わかるよ。僕も典型的にそのタイプだから。だけどね、だからこそ思うのだ。「だったら、文句言う権利ないよ」と。

別に世の中と戦えなんて思ってない。ただ、誰かに責任を擦り付けて終わりな自分……にさよならできたらQOLがあがるんじゃないかなと。今自分が安易に思っている案以外に、別の視点がもしかしたらあるんじゃないだろうか。そういう意識を持つだけでもQOLって上がるんじゃないか。僕は、そう思うのだ。






  

《ココロセラピストTATSUMI さんの記事一覧はコチラ》