ココロセラピストが語る!? ウズラよ、消えないでくれ。そして、消されないでくれ。~物事の本質を考える~

ウズラ

ウズラの卵事件。

最近、ウズラの卵事件が話題になることが多い。あなたがこの記事を目にしている頃も、まだ話題に上っているだろうか。ウズラの卵事件、というのは便宜的につけただけで、正式名称でも何でもない。どんな事件なのか念のため説明しておく。小学校の給食で、ウズラの卵を喉に詰まらせてお亡くなりになってしまった児童がいるとのことだ。

悪いのはウズラの卵なのか。

本当に気の毒なことだ。こういうことが繰り返されなければ良いなと心から思う。それはそれとして、違った意味で驚いたことがある。どうも、その事件をきっかけに、ウズラの卵が悪者にされているような流れになっている。僕にはそれが、よく理解できなかった。

最初に喉に詰まらせてしまった児童が悪いわけではないことは強調しておく。これは事故なのだ。さて、ではウズラの卵のどの辺に問題があるのか。「ツルっとしている」「のどに詰まらせやすい」etc…。なるほど。わからなくもない。やっぱり、ウズラの卵は給食には相応しくない。当面、ウズラの卵は給食から排除しよう………って、やっぱり思えない。

パンの思い出。

給食というワードを耳にすると、いつも思い出すことがある。僕は、小中学校の頃、給食で出るパンが大嫌いだった。今はわからないが、僕が子供の頃は給食を残す子こそが悪だった。残すことが許されなかった。何らかの事情で残さざるを得ない時は、担任に許可を貰わなければならなかった。食べ物を粗末にするのは勿体ないから、きちんと食べましょう。それが当時の食育だったのだろう。それはそれで正解だと思うが、万人受けの正解でもない。

何故、パンが苦手だったかというと、当時の給食のパンは市販のパンとは違って固かったのだ。他の人に共感されたことがないので、僕だけかもしれないが、飲み込めなかった。「よく噛んで飲み込みましょう」と言われても、非常に困った。そんなことは小1だって、ちゃんと知っている。知っていても、それは解決にはつながらないこともあるのだ。

噛めば噛むほど固くなっていく感覚。口の中にパンを詰め込み過ぎるから、そうなってしまうのだろうか。何か違う気がした。仕方がないので牛乳で流し込んだ。でも、食べきれない。毎度毎度、先生に許可を求めに行くしかなかった。そして必ずこういわれるのだ。「もう少し、食べてみようか」と。

先生は先生で、そういう指導をする決まりがあったのだろうから、それもまた仕方がないことなのだろう。お互いに、毎度毎度、パンが出るたびに僕も先生も「また同じことの繰り返しかよ……」と思っていたかもしれない。とりあえず牛乳で飲み込めば良いのだから我慢しようと思っても、実はそれだと牛乳の量が足りないのだ。牛乳が飲み終わってしまうと、僕は打つ手がなくなってしまうのだ。

「パンを残すと、お腹すかないの?」と聞かれたこともあるが、そういう問題ではない。お腹はすくに決まっている。パンの日はごはんがないので、主食がないのと同義だ。学校の勉強も好きではなかったが、給食の時間はもっと苦痛だった。だって、極端にいえば、窒息タイムだのだ。喉にパンをつまらせて、悩みながらどうやって、その場を乗り切るかばかり考えなければいけない時間だったのだ。

半分くらい頑張って食べると、先生も諦めなのか、努力を認めてくれたのか、残す許可をくれることが多い。あとはビニール袋に入れて持ち帰るのだ。「持ち帰って、お家で食べてね」ということなのだろう。だからね、お家に持って帰っても、飲み込めないから食べたくないんですよ。当時の僕が、このウズラ事件を知ったら間違いなく「当面の間、自粛すべきはウズラではなくパンだ!」と声高々に叫んだだろう。

ちなみに、誤解のないように言っておくと、僕はパンは大好きだ。給食からパンを排除しろなんて当然思っていない。これは、パンを排除すれば済む問題ではないと思うのだ。固いパンはのどに詰まる。危険。給食に出すべきではない。そういう問題ではないのは、子どもの僕だって理解していたつもりだ。理解していたつもりだが、オジサンと化した僕は、混乱してしまった。ウズラの卵はのどに詰まる。危険だ。給食に出すべきではない……。はて。これは、どういうことだろう。

教師が悪い。親が悪い……のか。

話を戻す。ウズラだけが極悪非道の存在であり主犯ではないとすると、誰の責任なのか。これもまた意見が割れそうだ。

「そもそも家庭で、食べ物はよく噛んで食べましょうって、ちゃんと教えているのか。ちゃんと教えてないからこういうことになるんだ!」

「担任は何をしているんだ。子どもの安全を常に見守り続けるのが仕事でしょう。それに、きちんと食育しているのか。職務怠慢ではないのか!」

「献立作ったの誰だよ。栄養士か。何が危険かも考えず、品数だけ合わせて適当にメニュー作ってるんじゃないの?」

「いやいや、校長の責任だろう。最終的にGOサイン出すのは校長でしょう!」

なんて堂々巡りになると「じゃ、当面はウズラの卵を自粛してですね……」と、責任の矛先はウズラの卵に向かってしまう。なんて気の毒なんだ、ウズラの卵。僕の喉を何度も苦しめ続けた固いパンは、現役で今も、のうのうと偉そうに市民権を得ているだろうに。

責任の擦り付け合いは見苦しい。

この一連の責任の擦り付け合いっぽい空気感は、とても気持ちの良いものではない。誰も責任を取りたがらないから、ウズラに責任を押し付けるというのは、中二病の僕よりも幼稚な発想な気がする。おそらく子供のいる家庭では「よく噛んで食べようね」とか「栄養のバランスは大事だよ」とか、それなりに食育はしていると思われる。じっくり子どもと一緒に食事を摂る時間が作れない人もいると思うが、それでも一度は教えていると思う。学校も同じだ。先生たちも食育はしていると思われる。

「そういうのは学校の管轄だよね?」とか「こういうのは家庭の問題だよね?」とか、そういうことは思っていないと思う。子どもっていうのは、基本は家庭で育てるものだと思う。しかし全責任が家庭にあるわけでもない。全責任が学校にあるなら、親なんて不要ということになる。細かい役割は違うかもしれないが、子どもっていうのは、大人たちみんなが温かい目で見守ってあげるものだと僕は思う。

これは給食だけの話ではない。なんだってそうだ。そもそも社会ってそうあった方が平和ではないだろうかと僕は思う。

給食はさておき、遊具の話。

給食の話ではないが、今の子は、昭和の子供と比べて、外の遊具が少なくなった気がする。滑り台も、ジャングルジムも、その他もろもろ撤去されてしまった公園や学校は多いのではないだろうか。前にも話したかもしれないが、僕は回旋塔が大好きだった。スパイダーマンにでもなったような爽快な気分を味わえるからだ。でも、もはや回旋塔は「何それ?」と言われる存在に化してしまった。

なんにせよ、危険と判断されたものは、ことごとく排除されていく。僕は、なんだかそれが悲しい。生きるって、そんなに簡単なことじゃないと思うのだ。子供の頃から、子どもなりに、痛い目を見たり、悩んだり、傷ついたりしながら、成長していくものだと思う。そして、子どもとは言え、徐々に自己責任という意識も育てていくものだ。

……と、思っている人は実は一定数いると思う。それは良いことだと思う。でも、問題は別にある。危ないことそのものが問題なのではなくなっているのだ。危ないものと関わる際の責任の所在問題だ。

例えば、学校ではブランコの立ちこぎはNGなところも多いと思う。だが、公園では親も別に目くじら立てて怒ったりはしないと思う。あからさまに危険なことをしていたら注意すると思うが。もっというと、ちょっとくらい怪我をしても、それもまた勉強だと考える親もいるだろう。それはそれで良いのだ。親の管理下だから。

でも公園に毎度毎度親がついていくわけにもいかないのが現実だ。そうなると、子どもは自由気ままにルール無用で遊びだす。昭和は、それでも良かったのだ。本当に良かったかどうかは別として。

だが、もし、子どもが勝手に怪我をした場合、誰が責任を取るのかという問題がある。一緒にいたお友達のAくんがちょっかいを出してきたとして、それが問題なのか。滑り台からジャンプして飛び降りたBくんが問題なのか。そうなると、当人同士の問題ではなく、ママ友バトルに発展する別の危険性も出てくる。あるいは、公園の管轄部署を特定して「公園が公園である以上、何かあったら公園の管轄の人が全責任取ってくれるのよね?」という流れになるかもしれない。そうなると、公園は公園で「いっそ、遊具を撤去してしまえば予算もかからないし、遊具に関する事故のクレームも減るかな……」という発想になる。

ウズラの無罪に一票。

遊具の話を例に出したのは意味がある。今回のウズラの卵事件と本質は同じだと思うのだ。何かがあったとき、少なくとも自分は事件に巻き込まれたくない。部外者でありたい。責任を取りたくない。あわよくば誰かの責任にしたい。多かれ少なかれ、こういう個々人の心理が、ちょっとずつ連鎖して起きた現象なのではないだろうか。

ウズラの卵事件では、食育や、誤嚥時の応急処置などが話題に上がりやすい。それらも、もちろん大事なのだが、もう少し、違った目線で見てみよう。

大人の昼休みといえば、食事の時間も休憩時間も込みという認識の人が多いと思う。逆にいえば、食事を摂らない人は、その時間、ずっと昼寝をしていたり、別の作業をすることができたりするわけだ。だが、小学校はとなると、おそらく、〇分、食べる時間。ごちそうさまをしてからが昼休みで、校庭に行くなり、教室で過ごすなりできる。こんな感じだと思う。

そうすると、よく噛んで食べるかどうかも大事だが、食べるスピードの個人差も出てくる。早く食べ終わった子は、暇を持て余して、食事時間でもお構いなしに騒ぎ出すかもしれない。逆に、食べるのが遅い子は、いつも焦った気分で食べ続けなければいけない。そうなると、よく噛んで食べるかどうかどころの問題ではなくなってしまう。

ときどき、保護者も給食を食べる機会があると思う。メニューや味を楽しめて有意義な時間だと思う。だが、せっかくなので、もう一歩踏み込んでみたらどうだろうか。大事なのは栄養バランスとマナーだけではない。それこそ、教育委員会や教師、保護者などが、給食を食べながら、話し合いをする場を設けるなどしてみてはどうだろうか。

状況を設定して、子どもと同じルールで「残していいもの悪いもの」「残し方について」「時間配分」なども、大人たちもロールプレイしてみてはどうだろうか。絶対に何割かは、食べることよりもお喋りに夢中になる人が出てくると思う。なんだかの理由をつけて、殆ど食べない人もいると思う。

そうすると、必ずしも子どもと同じ状況とは言えずとも、なんとなくは、子どもたちが、どんな立場で、どんな状況で、どんな気持ちで食事しているかがわかるかもしれない。「食べる時間、短くありませんか?」「食べ終わった人から昼休みでよくないですか?」などなど、意見が出てくると思う。それらの疑問や提案をアンケートにして児童に意見を聞いてみるのも良いかもしれない。

「そういうのは学校の仕事で……」ではなくて、それこそ教育委員会や厚労省にも知って欲しい大事なことではないだろうか。有識者の机上の空論も大事だが、生きた声をもっと大事にした方が良いと思うし、生きた声を引き出そうとする意識を僕たちが持つことも大事だと思う。「そうはいうけど、そんな時間なくて……」という気持ちはわかる。だとしたら、安易に誰かを攻撃するだけではなくて、ちょっとした改善案でも出して発言してみたらどうだろうか。

それこそネットで、そういう会を立ち上げて、定期的、もしくは不定期で教育委員会に情報や意見を提供してみるとか、なにかしらできるのではないだろうか。別に、そこまでする必要はないかもしれないが、ただウズラの卵を目の敵にして終わり、という問題じゃないんだよなと、みんなが思ってくれたら嬉しいです。





  

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