見せかけの世界。
世の中は、見せかけだ。必ずしも悪いことではないと思うが、そういうふうにできている。たとえば、僕は偉そうに、こうして自分の意見を語っているが、実際は偉人でもなければ賢人でもない。それなりに元気でしあわせに生きてはいるが、その半分以上は本当は見栄な気もする。
本当の僕は小心者だし、コンプレックスの塊だ。人気者になりたいとは思っていないが、嫌われたくないという恐怖や不安は常にある。なので、ふと我に返っていると、悪意こそないが、良い人ぶっている自分がいたり、八方美人だったりする自分もいる。キャラが濃いのは自認しているが、だからこそ、悪目立ちしないように、無意識のうちに見せかけの自分を演出している、と最近思えるようになってきた。
空気が読めないと世の中を渡っていけないのは事実だし、何も考えず、何の配慮もなく、自分の意見をひたすら偉そうに語るのも、一見すると正直とか思うかもしれないが、場合によっては失礼になってしまう。なので、僕たちは常に建前と本音の間をバランスを取りながら生きている。偉そうな人が偉いわけじゃないし、強そうな人が強いわけじゃない。優しそうな人が優しいわけじゃないし、賢そうな人が賢いわけでもない。
一昔前に、セルフ・ブランディングという言葉がはやった。セルフ・プロデュースという言葉でもいい。その言葉を知っているかどうかは別として、結局のところ、僕たちは、自分というキャラクターを演じながら生きているのだ。社会に出ると、僕たちは、そういう自己演出をした自分というキャラクターを演じながら生活することになる。それは、学校でも会社でも同じことだ。
健全そうな学校でも、たぶん見えないところでイジメはある。もしかしたら、子どもだけではなく職員室間でも、ママ友間でもあるかもしれない。だが、表向きは「私たち、みんな仲良し」という役を演じている。会社もそうだ。本当はブラックでも「弊社はホワイト企業です!」みたいな演出をする。当たり前な話だ。「弊社はブラックです。社員は社畜だと思っています!」なんて言えるはずがないのだから。自分という個人も、組織という集団も、クリーンなイメージの演出をしあうことで、世の中は動いている。
見せかけの中の本質を見抜け。
別に「俺は斜に構えていて、他の人たちとは違うぜ!」と言っているのがカッコいいということではない。斜に構えているのではなく、もしかしたら単に空気が読めないだけかもしれないし、自分の感覚がズレているだけかもしれない。世の中は、極力、クリーンで美しいイメージでありたい。それは誰しもが思うことだと思う。僕も思う。だが、騙されてもいけないのだ。
「みんなで、頑張って、利益を上げよう!」と言っても、一部の特権階級だけ懐が温かく、それ以外は搾取されるだけかもしれない。みんなで頑張って、富をどう再分配するのか、にも少しで良いので気にしてみると良いと思う。一方で、偉そうに私腹を肥やしていそうな特権階級と思われている人たちが、実は誰よりも自己犠牲の精神で、末端の社員たちを守ってくれているかもしれない。
世の中は、平等であり、対等であり、と思ってはいても、現実は違うから気をつけた方が良い。みんなが、平等で、対等だったらいいよね、と平等に思える権利がある、くらいに思っておくと良いかもしれない。
僕たちは生まれてきた以上は可能な限りは自分のQOL(人生の質)を向上させていくべきだ。べき、という言葉を使うと「私の自由を義務化しないで!」と思う人もいるかもしれないが、人生の質を、わざわざ下げていると、生きる気力がなくなってくると思うので、敢えて、べきと言わせてもらった。
見せかけだけの世界、ではあるのだ。繰り返すが、それは悪でもなければ、間違いでもない。希望は誰だって持っていたいし、すがる存在だって必要だ。人生に、絶対的な保証がないように、最終的には見えない何か、言うなれば幻想を信じ、すがるしなかい。だから、ご都合主義かもしれないが、僕はサンタクロースも信じているし、オバケも信じているし、宇宙人も信じている。だからこそ、友情も信じられるし、愛情も信じられる。別に、サンタクロースやオバケを信じなくても、まったく問題はないのだが。
そんなわけで、僕たちは見せかけ合いの社会の中で生きている。悪く言えば、騙しあいの世の中を生きている。僕たちは、常に誰かと駆け引きをしている。そして、大多数の人がクリーンな世界の一員を演じて生きている。モヤモヤしながらも。そこで、一旦、立ち止まって欲しい。クリーンな社会、クリーンな個人、対等で平等。みんなで楽しく、仲良く暮らせる社会。そういう設定で、生きているとしよう。とても、すばらしいと思う。
では、何故そこにモヤモヤした感情が残ってしまうのだろう。それは、自分のしあわせは自分だけの力で得られているわけではないからだ。自分のしあわせは、誰かの犠牲の上に成り立っているということだ。ものすごく重要なことだ。
誰かの犠牲の上に自分のしあわせ、生活があるとする。だからといって、「これから先も、あなたは私のために犠牲になってください!」と無意識であっても、思うのは、ちょっとマズい。これが、モヤモヤの種であり、養分になってしまうのだ。生きるということは、とても残酷だ。時には自分が生き残るために、誰かを犠牲にしなければならないこともある。自分が優位に立つために、誰かを突き落とさなければならないこともある。これを、努力や根性といった話で安易に片付けることはできない。
またもや自分の話に戻るが、僕も自分がいま、しあわせであると仮定すると、それは多くの誰かの犠牲の上に成り立ってくれている。誰でもそうだと思うが、みんな自分が正しいと思っていて、生きているが、その影響でいつの間にか犠牲者にされてしまう人だって、貧乏くじを引かされてしまう人だって少なからずいるということだ。
100%のクリーンは存在しないのだ。だからこそ、だからこそだ。自分さえ良ければ良いと思っている人間が増えてしまうと、どんなに「私は、しあわせ! あなたもしあわせ!」と思ったところで、自分はしあわせでも、相手はしあわせでもなんでもなく、惨めなだけなのだ。自分以外の存在が犠牲で良いと思っている人が増えると、搾取する人、される人に二極化されてしまう。それは、循環を生まない。その先にあるのは破滅だ。
これは反省点でもあるが、僕は八方美人なところがある。だから、悪く言えば、意見がコロコロ変わっていて優柔不断だということだ。自分が不利にならないように、場の空気で支配権を持っていそうな人に無条件で賛同してしまっている、と考えると実に情けない。その場は、逃げ切れるかもしれないが、その先に真の信頼はない。
自分は本当は何を考えているのだろう。自分は本当は何を望んでいるのだろう。自分は本当はどんな結末を望んでいるのだろう。その都度、自分の心と対話をして、発言なり、行動なりしたいものだ。もし、不本意でも生き延びるために、誰かを犠牲にしなければならないとしても、犠牲は最小限にしなければならない。もし、自分が不本意ながらも犠牲になるとしたら、その犠牲も最小限に留めたい。運やタイミングで正解は変わってくるかもしれない。でも、その都度、その時の最適解は考える習慣を身につけたい。
自分はしあわせでいたい。だけど、自分だけのしあわせなんて、ありえない。自分以外の人のしあわせも、少しは考えてあげたい。自分のしあわせに貢献してくれている人が、仮に見えていなかったとしても、間接的であっても存在はしている。無駄に誰かにはずれくじを引かせるのではなく、無駄に誰かを犠牲にするのでもなく、極力、Win-WINでHappy-Happyになれる方法を考えていこう。そして、小さなことでも、誰かのおかげでしあわせを手にしていられるのだから、感謝の心は大切にしよう。