ココロセラピストが語る!? 自分の人生を通して気づいたこと~学校では教えてくれない大切なコト~

学び

学びたいし、成長したい。

人は学びたいし、成長したいものだ。と、書いてはみたものの、さっそく誤解を与えそうなので軽く説明。学びたいというのは決して学校で習う勉強の事ではない。学校で習うことも含むが、それはそれで学びの一部であり、もっと広義に捉えて欲しい。

そもそも、学びとはなんだろうと考えてみた。自分の言葉だと、どんな定義になるか改めて考えてみた。特にカッコいいことを言うつもりはないが、自分なりの定義を再確認すると、これがまた腑に落ちたというか、スッキリした気がする。

学びとは、人生を少しでも良くするための何である。これが自分の中でしっくり来た。僕はQOL(人生の質)というワードを頻繁に使用している。何故なら、生まれてきた以上は人生をより豊かなものにしたいし、あなたにもして欲しいからだ。だからこそ、人生には学びが必要なのだ。人生を通して、学びを得ることで、人はどんどん成長していく。これもまたおもしろい。

ここで成長というワードが出てくる。これもまた少し考えてみる必要がある。では、成長とは何か。成長とは、学びを活かせるようになることである。学校や、何かの資格試験のテストで高得点をはじき出すことにフォーカスしすぎてしまうと、ものすごく人生の限定的な部分にフォーカスされてしまい、人生の本質とはズレてしまうので、くれぐれも、それがすべてだとは思わないで欲しい。まあ、そういうと、勉強が苦手な僕の皮肉に聞こえてしまうかもしれないが。

だが、そもそも学校も本来は、陰謀論的な目的を除外して考えると、人生に役立つ知識や教養を身につけるために存在していると思う。だが、必ずしも教科書に書いてあることだけでQOLをアップさせることはできない。

広い視野を持て。

たとえば、僕が今、しあわせであると仮定して、そもそも否定する気もないが、何故しあわせになれたのかを考えてみた。いろいろ要因はあるが、たぶん世間的というか社会的に、あまり重要視されていないものの価値に気づけたことが、僕にとっての学びであり、成長につながったと思う。そして、その結果、しあわせを感じられるようになったと思う。

僕の原点になる本当の教科書は『ドラえもん』だったと思う。荒唐無稽な無茶苦茶設定も多いが、妙にリアリティもあった。そして、それこそ作者の技量だと思うのだが、キャラクターたちが、自分の身近な存在として親しむことができた。

僕はよく未来の事を考える。僕は自他ともに変わり者というキャラクターだ。もちろん良い意味だと自分では認識している。では、何が変わっているのかって考えると、それはハッキリしている。未来だ。数分先、数日先、数年先、もっともっと先の時代。そういうものを考えるのが楽しいのだ。

僕は四次元ポケットは持っていない。今、荒唐無稽と思えるアイディアや考えも、それが未来では喜ばれたり、当たり前のようになっているかもしれない。未来にはそれが存在するかもしれない。そういうことを考えている時間が僕にとってはしあわせな時間だったりする。

それは単なる妄想であり、現実逃避だと思うかもしれない。だが、決してそうではない。ふざけているわけでもない。今、この瞬間に一秒より先の未来の人生の質をより高めたいのだ。心の中の四次元ポケットは実はカオスだ。便利な秘密道具そのものは入っていない。清濁あるし、玉石混合の現実や妄想が無限に広がっているのだ。

そんな中で、少しでも自分、もしくは自分たちのQOLをあげるためのヒントを探り当てて、秘密道具を再構築するのだ。それは、言葉かもしれないし、動作かもしれない。物質的な何かかもしれないし、アカデミックな何かかもしれない。または心の動きかもしれない。

とにかく、ありとあらゆるものの中に、QOLアップのヒントは隠されているということを覚えておいて欲しい。心の四次元ポケットの中にアンテナを広げてみて欲しい。そして、良さそうな、楽しそうな何かが浮かんだら、それを是非深めていってもらいたい。たぶん、それが学びなのだ。そして、そのプロセスや結果が、自分自身を成長させてくれる。

個人差を受け入れろ。

僕だけでなく、多くの人は万人ウケして、普遍的な成功法則を求めていると思う。だが、これに関して僕は思うことがある。それは、万人ウケも、普遍的な成功法則もあるにはあるだろうが、それは決して人生を100%保証してくれるものではないということだ。

今は、時代の流れで、ありとあらゆるものが共生できるように、尊重されるようにという流れになってきている。それは良いことだ。ぜひ、そうあって欲しいと思う。だが、個の尊重とか、多様化とか、それっぽく言っても、それらは、実はとても複雑なのだ。それこそ、みんなが同質化、同一化することなんて、できない。だって、みんな違ってみんな良いのだから。

みんな違って、みんな良いというのは、ものすごく難しい。みんなが生きやすくするために、基準ができたりルールができたりする。それも、素晴らしいことだ。だが、よく考えないと、それらは、もしかすると自分たちの首を絞めるだけで、もしかしたら生きづらさを逆に生み出してしまう危険性もある。どんな仕組みを作っても、誰かにとっては都合がよくても、誰かにとっては都合が悪い。それが世の常だ。

人の相性もそうだ。自分にとっては誰かがステキに思えても、他の誰かにとってはイヤなヤツにしか思えないかもしれない。決してそれが悪人ではなかったとしても。学校でも、会社でも、家族でも、みんなで仲良くは幻想なのだ。絶対ではないが、ほぼ必ずパワーバランスは存在するし、誰かはほぼ必ず何らかの妥協をしている。決して、良いことだらけの関係ではないのだ。

僕たちは、そんな複雑な関係性の中で、なんとかバランスをとって、できるだけ敵を作らず、誰も傷つくことなく、平和で、健康に生きられるように暮らしている。言いたいことを言えたら素晴らしい。だが、言いたいことを言うことで誰かが傷つくこともある。時には、言いたいことを敢えて言わないことで、危機を脱することができることもある。空気を読む能力は必須だが、敢えて空気を壊した方が良い場合もある。

世界はものすごく複雑な関係な上で成り立っている。だからこそ、僕たちは、もっともっと学び、成長して、それぞれが、より豊かに暮らせるように意識できればと思う。そして、そこに、きっと答えはない。答えが出ても、それは自分の答えであり、万人にとっての答えではないのかもしれない。なんて、話は決して試験にはでないが、とても大事なことだと思う。




  

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