ココロセラピストが語る!?『自由人』とは?~抑圧された世界に生きている人たちへ~

自由人

自由な人に思われている人について。

 

「〇〇さんは、いつも自由で楽しそうで良いなぁ……」なんて思うことってありませんか。

あるいは、思われている人、いますか。

 

僕もかつては、他人が羨ましくてうらやましくて、わがまま放題、やりたい放題、誰にも怒られず、文句も言われず、好き勝手に生きているであろう人たちに嫉妬していました。

 

今考えると、僕も、もしかしたら、それ系(自由人)と思われていたことも少なからずあるような気がしました。

 

笑えますよね。自分が、自由人(と思える人)に対して嫉妬していたこともあると同時に、嫉妬されていたかどうかは知らないけれど僕も自由人と思われていたなんて。気のせいかもしれないけれど。

 

ここで、既に結論が出ているのですが、僕が自由人かどうかは実際にはわからないし、僕から見た誰かたちが本当に自由人かどうかも、よくよく考えたら怪しいよねって話。

 

つまり、勝手にお互いが、相手を先入観だけで見て、勝手に羨んだり、嫉妬したりしていることって、結構な頻度であるんじゃないかってこと。

 

恥ずかしながら、僕は実力以上に自分を大きく見せようとしていた。

 

僕の場合は、まぁ、今更ながら隠してないけど、以前は少しでもよく見られようと見栄を張ったり、コピーライティング的な技法を使って読者さんを挑発したり、していました。

当時の僕を知っている方は、もしかしたら僕を能天気で好き勝手に生きている自由人と思っていたかもしれませんね。

というか、「余裕だぜ!」的なセルフイメージを作ろうとしていたので、そう思われていたのであれば、ある意味成功ではあるのですが。

僕の傲慢な態度に内心うんざりしていた方々には心からお詫びします。

 

若いっていいよね。そんなふうに、堂々と見栄を張って粋がったりできるんだから。

え、賢い人は若くてもそんなことはしない? 確かに。すみません。

ただ、年齢を重ねてくると、しらじらしいほど自分を美化して大きく見せるのは恥ずかしいなって思えるようになってきました。

 

だって、等身大の自分を否定しているみたいで可哀そうだから、自分が。ネガティヴなセルフイメージで自分自身を固めて、自ら率先して陰キャ生活をしなければならないってことじゃないですよ。

無理にハイテンションになってりして、ぐったりする必要ないよねってこと。

 

とはいえ、通過儀礼的に、そういう試験的な試みをしてみる時期も大事なのかなって思ったりもします。

暴走気味ではあっても、自分の限界を、きっと無意識的に試そうとする時期ってあるんじゃないかって思います。

そのプロセスで痛い目を見たり、恥ずかしい目にあったりしながら、少しずつ自己成長につなげていっていたのかもしれません。

 

僕を自由人とすると。

 

そこで、過去の恥ずかしい僕を例にして分析してみましょう。

たとえば僕が自由人に思われていたと仮定します。

 

僕が思っていた自由人イメージは「わがまま放題」、「やりたい放題」、「誰にも怒られず」、「文句も言われず」、「好き勝手に生きている」です。

これをひとつずつ見ていきましょう。

 

「わがまま放題」:自己主張できるとカッコいいと思い込んでいた時期が確かにありました。日本人は気が小さく、言いたいことが言えない人が多い的な。たぶん、それは正解だとは思うんです。でも、言いたいことが言えないというだけではなく、空気をきちんと読めているから「今は黙っていた方が良いかもしれない」という合理的な決断を下していただけかもしれません。だって、「ただ、思っただけ」とかいって、相手が傷つくことを平気で言ってくる人って、正直関わりたくないでしょ。せめて、言い方を考えてくれって思うじゃないですか。言いたいことを言うのは勝手ですが、言葉には責任が伴うということを忘れてはいけないんです。

 

「やりたい放題」:僕は確かにやりたいことを優先してきました。これは否定しません。ファミコンもたくさんやってきたし、マンガもたくさん読んできました。大人になっても遊び惚けていた時期もありました。でも、それがカッコいいかどうかは別なんです。今でこそ、あまり言われなくなりましたが、当時はゲームやマンガにどっぷりはまっていると『おたく』と呼ばれて差別されていました。最近では、そこまで差別的な意味合いじゃなくなりましたが、だから、堂々と、自分の趣味嗜好を大きな声で言えない時代もあったんですよ。多数派の人と違ったことをすると、白い目で見られることだって多いです。僕は腰痛持ちなのですが、腰を痛める前はダーツが好きでした。自分と的との関係性が好きだったというか、周囲を気にせず邪念が入らない感覚が好きだったんですね。という話をすると「人と関わらない=暗い=本当にそれが楽しいの?」的な目で見られたこともあります。やりたいことをやるっていうのは、良いことですが、良いことだけではないんですよね。やりたい放題をカッコいいと思うのであれば「それをすることでどう思われるかわからないが気にしない、または受け止める、という覚悟」が必要だと思います。当然、お金や時間は減ってきます。

 

ちょっと脱線しますが、仕事も同じです。好き勝手に偉そうにしていると思われる人もいますが、そういう人は、偉いから何をやっても許されているわけではありません。それこそ、腹をくくって、決断し、覚悟を決めているんです。決断力もなく、腹もくくれていないのに偉そうに立ち振る舞っている人は、後で思いっきり痛い目を見ます。覚悟がないから、耐えられないです。

 

「誰にも怒られず」「文句も言われず」:これは、思い込みなんですよね。たぶん、人って何か言ったり、行動したりすると、誰かしらがアンチ的なことをしてくるのが世の常です。怒られなかったとしても、嫌味や皮肉を言われると思います。たとえば、ネットで自分の絵を載せたら、良く知らない人に「そんな下手な絵、よく堂々と載せられるね」的なことを言ってくる人も一定数いるようです。文章もそうですよね。僕の記事だって、応援してくれる方もいれば、悪く思っている方も一定数はいると思いますし。それでも、自由人でありたいのであれば、スルーする力をつけるか、文句を言ってこないフィールドを探すか作るしかありません。

 

「好き勝手に生きている」:これはね、どう生きたいか、なんですよ。だって不自由に生きたくないですから。ただ、イヤなことから全部逃げるとか、それは僕は得意ではないので、ある程度は受け入れています。イヤなこともあるけれど、悲しいこともあるけれど、辛いこともあるけれど、そんな中で、人生の余白を作り出し、自己主張をし、行動し、失敗や成功を繰り返しながら、自分自身の人生と折り合いをつけているだけです。だって、自分の人生に誰かが責任とってくれるわけないじゃないですか。誰かの言うことを聞いているだけで保証される人生なんてあるわけないじゃないですか。

「だから、大胆な行動をして一攫千金を掴もう!」的なネットワークビジネスに誘導しようとか、そういうことじゃなくて。そんなに大胆である必要はないし、一攫千金に執着する必要もありません。誰かに植え付けられた本来不要な欲望に踊らされる必要もありません。

 

人生は取捨選択の繰り返しです。

結果的に、それが自分の中で良い感じになったら「嗚呼、私は自由に生きてこられたんだな……」って思えるんじゃないでしょうか。

 

 

それが人生を好転させるセルフコントロールの極意だと僕は思っています。

 

 

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