やっぱり最後に勝つのは心がキレイな人だよね? ~精神性が美しい人が人生を制する~

知力が高くても、仕事が出来ても、お金持ちでも、心が汚れている人には近寄りたくありません。 関わると、トラブルに巻き込まれそうだから。

心がすべて?

心はとても大事です。
もしも心が無ければ人として生きる価値があるのかどうかさえ疑問に思えるほど重要です。

世の中に宗教や哲学、心理学が存在しているのも、僕たちが心に強い関心を持っている証拠だと言えます。

心は目に見えない存在です。
決して優劣をつけたり点数をつけたり出来るものではありません。
そもそも心の動きを数値化する必要性さえありません。(数値化する研究をしている人もいるのでしょうけれど)

心が豊かになればなるほど幸福度は上がります。
「その根拠はなんですか?」と言われても非常に困るので信じない人は信じなくて良いです。

というのも、心というものは《感じる》事に意味があって、理屈そのものを指すわけではないからです。

 

「○○でも、心がキレイなら良いよねー………」について

よく「勉強が出来なくても、心がキレイなら良いよね!」という事もがいます。
よく「仕事が出来なくても、心がキレイなら良いよね!」という大人がいます。
よく「お金が無くても、心がキレイなら良いよね!」という人もいます。

これについて、考えてみたいと思います。
まず、それらの言葉を誰かに言われたらあなたはどう感じるでしょうか。

間髪入れずに「その通りだ!」とか「良いこと言うね!」とか思うでしょうか。
残念ながら、そういう人は少ないと思います。

ちなみに僕自身にその問いをするなら「何があったのだろう?」と思ってしまいます。
場合によっては心配なのでカウンセリングを勧めるかもしれません。

どうしてそう思うかというと、心が満たされている人は、まずその手の発言はしないものです。
どこかで何かに妥協している時、あるいは、受け入れがたい何かを正当化したい時に口に出る言葉だと思うのです。

心が満たされた状態であれば、「○○でも」表現はしません。
「でも」は逆説の接続詞ですから。
つまり「でも」の前に満たされない何らかの条件があるのです。

「勉強が出来て、心もキレイならなお良いよね!」
「仕事が出来て、心がキレイならなお良いよね!」
「お金があって、心がキレイならなお良いよね!」

だったら、かなり幸せだと思います。
これらは、無いよりあった方が社会生活を営む上ではプラスですからね。

だって、自分が仮に結婚相談所に登録に行くとしたら、相手を選ぶ際、「ない」より「ある」人を優先して決めますよね。

そうすると「○○でも、良いよね?」と言われても、共感して貰える保証はなく「いや。悪いとは言わないけど、良いとも言えない」と思われてしまうのが実際のところだと思います。
では共感的理解を示してくれない人は心がキレイではない人(悪人)なのかというと、決してそういう事ではありません。
人は誰だって条件が良い方が良いのですから。

それはそれとして、「○○が無くても、心がキレイなら良いよね」が必ずしも悪い事かというと、決してそういうわけではありません。
誰だって心がキレイな人が良いに決まっているのです。
仕事上の付き合いでも、プライベートでも。
もしくは自分自身でさえ。

もちろん、どんな欠点やコンプレックスがあっても、それを上回るほどのキレイな心を持っている人がいるならば、その魅力が武器になり、仕事も恋愛も仲間に恵まれてうまく行くと思います。

人にもよるかもしれませんが「自分の心が汚れて来た」、「自分の心が病んできた」と思ったら、具合が悪くなる人が多いと思います。
「なんで、私、こんなに性格が悪いんだろう……」となってしまうと、どんどん自己評価が下がってしまいます。
そしてQOL(人生の質)も下がってしまいます。

だから、やはり心はキレイがベストです。
そう考えると「○○でも、心がキレイなら良いよね……」という発言は実は心がキレイでは無くなってきているシグナルとも考えられます。