子どもが愚図ったり、親を困らせようとするような言動をする時、それは僕たち両親の不調和へのメッセージである場合が多いと感じます。
我が家で起こった「執拗にママに甘える」「ママを困らせようとする」「パパを嫌がる」といった現象は、僕たち親の問題を娘が精一杯に変容させようとした結果でした。
「なんで泣くの!?」「人の嫌がることをしないで!」「わがまま言うんじゃありません!」というたしなめる親の態度は子どもたちをいっそう困らせてしまうようです。
娘の小葉が幼児園に通い出した4月から、お弁当作りはパパが担当しました。
自宅で菜食料理教室などもしているので、手作りで3分搗きの玄米を使い、野菜や雑穀を使ったおかずをせっせと早朝から作っていました。
1時間~2時間くらいの時間をかけて一から作ることも少なくありませんでした。
た かきびハンバーグ、もちきびポテトコロッケ、アマランサスのたらこ風パスタ、ひえしんじょの照り焼きや炒め物、もちあわのクスクス、車麩の唐揚げ、高野豆 腐のカツレツなど、作るためには前日からの下ごしらえなども必要なものもあり、絶えずお弁当のことを考えているような日々でした。
「パパのたかきびハンバーグ、ちょっとぉ~バツです。」と娘がハンバーグを嫌がるようになりました。
幼児園の先生にもフィードバックをもらいましたが、噛みごたえがありすぎて、食べるのに時間がかかるようです。
それでも、パパの作ってくれたお弁当だからと一生懸命口に含もうとし、オエッとはき出しそうになりながら、食べていたそうです。
我が家では玄米菜食が基本でしたが、娘の小葉の嗜好でその食事も変わっていくことになりました。
魚やお肉を食べたがるので、外食ではそれらを摂ることも増えるようになっていったのです。
柔らかい唐揚げ、焼き鳥、焼き魚など、とても嬉しそうに食べているのを見ると、パパのやっていることは「食の罰ゲーム」のように感じてしまうのでした。
玄米菜食も食事のひとつの選択肢、メニューのひとつとして考えるようになりました。
お弁当作りが1日のルーティーンワークになり、朝に一から作り始めるようになってしばらくすると、幼児園から帰ってきた娘が「お弁当箱を見てぇ!」と見せるようになりました。
「ぴかぴかに食べたよ!」と嬉しそうに見せるのです。
その姿をとても嬉しく思い、パパはまた頑張って早起きして磨きのかけた玄米菜食のお弁当を作るわけです。
その頃から、我が家では娘がママに執拗に甘えるという機会が増えました。
「ママじゃなきゃだめぇ~! ママがいい~!」と決まり文句のように泣き愚図るのでした。
ママにべったりで、ママが家事をするどころではなくなります。
唯一、ケーキやクッキー作りをするいとまはなんとか娘も許してくれて、ママの作ったケーキやクッキーを喜んで食べるのでした。
ママにべったりしたい時なのだろうと思っていました。
しかし、あまりにべったりな娘の甘え方にママも辟易して、イライラし出しました。
そのイライラにパパもイライラして、娘の愚図り方をたしなめるようになるのでした。
家族の穏やかさは失われ、とげとげしくなっていきました。
家族の危機です。
ありがたいことに、幼児園の先生のフィードバックを機会に、ママがお弁当担当になりました。
ママの可愛らしく、食べやすいように柔らかいもの、小さく切ったもの、お魚やお肉を取り混ぜたお弁当にしたのです。普段の食事もママが主体となって作るようにしました。
驚くべきことに、その交代がなされた日から、家族の穏やかなペースが戻りました。
ママに執拗に甘えることもなく、パパに甘えて遊び相手になってくれるように頼みだし、幼児園に行く際も自ら用意をするようになり、極端な愚図りはなくなりました。
ママが女性としての柔らかさを取り戻し、ママらしい姿になりました。
娘はパパを頼るようになり、ママが作ってくれるケーキやクッキーに執着することも減りました。
自立心が芽生え、自分で頑張ってみようとする姿勢も増えました。
……といった事象から、パパの頑張りが家族の不調和の原因であることが浮き彫りになったわけです。
ママのママらしい姿を奪い、勝手に四苦八苦してお弁当を作り、家事をする機会を奪い、ママの女性としてのエネルギーを押さえつけてしまっていたようです。娘は頑張ってパパの期待に応えるために、お弁当を綺麗に食べようとし、その良い子の反動でママに執拗に甘えていたのです。
頑張るパパ、イライラするママという家族の危機を娘は、敏感に察知して「あなたたちが変わる必要がありますよ。」という思いを込めて、存分に愚図っていたわけです。
それを娘のわがまま、過度な甘えん坊として捉えずに、「僕たちに何か不調和があるのでは?」と思い直して、本当に良かったと思います。
「あなたたちが不調和をもたらそうとしているので、わたし、ちょっと執拗に愚図ることにするわ。」
「パパ! あなたの頑張りはいつもだけど、『木を見て森を見ず』になるから氣をつけてね。」
と娘が言葉を上手に操るようになったなら、教えてくれるかもしれませんが、3歳の女の子にはまだ無理だったようです。
子どもが本当に伝えたいことは何なのだろう? と常に内省する姿勢を持ちたいと再び思いました。
子どもは常に親のために身を挺して何かを伝えようとしているという前提で物事を見たいということですね。
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