ココロセラピストが語る!『社会不適応者に対する偏見』とは?~心の病って社会不適応者のライセンスなの?~

『自分探し』の旅で迷子になってしまって、心が病んでしまう人も確かに多いです。 でも、そもそも自分を探す必要なんてないのです。

「わぁい。嬉しいな。お宝ゲットしたわ~☆」と素直に喜んで、そこに至るまでの他の人の協力や痛手には興味関心が無いとしたら、それは非常に恐ろしい事です。

確かに手段を選んでいたら宝は得られなかったかもしれません。
ただ、「手段を選ばない」を考える時は「目的」をより明確にして欲しいと思うのです。

「そもそも私は何故、虎の穴に入ってお宝をゲットしようと思ったのか?」という原点に立ち戻って欲しいのです。
たぶん究極は幸せになるための手段としてお宝をゲットしたかったのだと思います。
でも、仲間を犠牲にして得たお宝は、その人を本当の意味で幸せにしてくれるのだろうかという事に気づいて欲しいのです。

本当の悪党ならそれで良いのかもしれません。
でも、そんなアブナイ人でない限り、自分以外の誰かが傷ついて笑っていられるかと言うと、決してそうではないと思うのです。
悲しい気持ちでいっぱいになると思います。

もし幸せになるのが究極な目的だとしたら『虎の穴に入るという手段』を選ぶ必要性の検討の余地も出て来ると思います。
手段を選ばないのは良い事ですが、目的や手段そのものを選び間違えていないか。
そこに注意してみて欲しいのです。

それは決して妥協とは異なるものなのです。

 

私は社会不適応者?

心が病むと社会不適応者と思われるという話をしました。

でも、それは差別です。
「人を差別してはいけない」と知っているのに差別しているとしたら、それこそ病名こそつかなくても、心が病んでいる状態であり、差別主義者の言葉を借りるならまさに社会不適応者ということになります。

それはそれとして、本当に社会不適応だから病むのでしょうか。
それとも何だかの理由で病んでしい待ったから社会不適応なのでしょうか。
僕はどうしても「心の病=社会不適応」とは思えないのです。

もちろん「心が病んでいても良いんだよ」なんて言うつもりはありません。
病まない方が良いに決まっていますし、病まないために、あれこれ考えて僕の想いを提案しているのです。
結果的に病んでしい待った人たちには、良いとか悪いとかではなく「変な負け意識を持たないで欲しい」「快方に向かって欲しい」「人生の質(QOL)を向上させて欲しい」「再発を防いで欲しい」と思っているのです。

まだ病んでいない人に対しては「勝ち組思想を持たないで欲しい(そもそも変な選民意識や勝ち組意識そのものが心が荒んでいますから)」「心が健康でいつづけられる方法を考えて提案して欲しい」「病む前にカウンセリングを受けて欲しい」「病んでしまった人に手を差し伸べて欲しい」と思っています。

そして、病んでしまった人、元気な人、どちらにも考えて欲しいのですが、そもそも病む要因が無ければ誰も心を痛め、病むとは思えないのです。
心が傷ついて復活できなくなるような危険な何かが、きっと隠れているはずなのです。

「私は幸運が味方しているから生き残ったのよ!」とか「俺は気合いや根性があるから病まないのだ!」とか「私は心が強く、実力があるから成功者なのよ!」とか、そういう問題では無い気がするのです。

でも、多くの人は「運が良い、悪い」「気合、根性」「心の強さ」「実力の有無」という条件を心の健康の尺度と潜在的に思っていませんか。

もし、それらが絶対条件であるならば、その時点で差別的と言える気もします。
それらを持ち合わせていない人は初めから『負け組』であり『社会不適応者』という事になってしまいます。

では、自分の身内や親友が心の病になってしまったら同じ事が言えるでしょうか。
もし、身内や親友と険悪なムードになっているとしたら嫌がらせの一環として、そう言うかもしれません。
でも、いざそういう状況になったら、きっと病んでしまった原因をそれ以外の要因として探すと思うのです。
学校ならイジメを疑ってみるとか、会社ならブラック性を疑ってみるとかしますよね。

つまり、「運が良い、悪い」「気合、根性」「心の強さ」「実力の有無」以外にも、真っ先に疑う要因があるということなのです。
だとしたら、心の病は社会不適応なのではなく、「心に不適応な環境」が存在しているということなのです。