ココロセラピストが語る!『社会不適応者に対する偏見』とは?~心の病って社会不適応者のライセンスなの?~

『自分探し』の旅で迷子になってしまって、心が病んでしまう人も確かに多いです。 でも、そもそも自分を探す必要なんてないのです。

本当に心に興味を持っているのか?

心が病んでしまうと、世間ではまるで社会不適応者のような烙印を押します。
自分で烙印を押して自虐的になる人もいます。

とても不思議な現象です。

「心の問題にもっと興味を持ちましょう」「心の病に理解を示しましょう」「ノーマライゼーションが……」「心のバリアフリーが……」「職場ウツにならないために」「メンタルヘルスが……」と世間ではあちこちでいわれているのに、心の病は一向に減りません。

「私、心理学に興味があるんです」と言う人も多いけれど、心そのものに興味を持っている人は少ない気もします。
また「他人を操る」とか「他人を見抜く」とか「他人を説得する」とか、そういうものは流行っていますが、自分自身の心に本気で向かい合う人は少ないように感じています。

変な心理テストのようなもので心を数値化して、点数によってメンタルヘルスを評価するとか、どうも、それこそ、そこらへんの怪しいカルトや勘違いしたスピリチュアルと大差は無いようなものが定着しつつある気もします。

格差社会と呼ばれる時代に突入しましたが、それは学歴や収入だけでは無く、心そのものにも格差が広まって来ているのではないかと思う今日この頃です。
心に興味を持っている風ではなくて、もっと本気でみんなが自分の心に向かいあってくれたらなと思います。

学歴は文句なしだけど、心が病んでいる。
収入は常に増えているが心が病んでいる。
病んではいないけれど、思い遣りの心を失ってしまった。
周囲と差をつけることでしか喜びを感じられなくなってしまった。
相手を利用して自分が得をすれば勝ち組になれるとか、そういう人が増えてしまったら悲しいです。

 

目的のために手段は選ばない!

目的のために手段を選ばないという考え方があります。
僕もこの考え方は気に入っています。
手段を選んでいたら革新的なアイディアは生まれませんし、時代を切り開くには常に新しい柔軟な発想を持っている事が大切だからです。

従来のやり方にこだわりすぎると、それ以上先に進めないことも多々あります。
ただ、この言葉の解釈を改めて考え直して見る必要があるのかなと思います。

どういう事かと言うと「私は、目的のためには手段を選ばない!」と言う人の何割かは「自分以外の誰かが傷ついても無関心で良い」とか「自分さえ良ければ他の事はどうでも良い」といった解釈をしているからです。

確かに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という言葉があるように、ノーリスクでハイリターンを望むのは簡単ではありません。
棚から牡丹餅があり得ないとは言いませんが、それはレアケースのラッキーです。

ただし、虎穴に入るのはあくまでも自分(を含む誰かと一緒)だという前提で考えて欲しいのです。
虎の穴に入る時に考えるべきことは、「リスクを最低限にする事」です。
そこで、単純に考えれば武器を持って行った方が良いかなとあれこれ考えるわけです。
そこで「手段は選ばないわ!」と革新的なアイディアとして「というわけで、私は待機しているから、あなた行って来て宝をゲットしてきて頂戴!」という強迫的な提案をすると、結果は得られるかもしれませんが、人としてどうなのかなということになるのです。