ココロセラピストが語る!?「ハラスメント」という流行がもたらすもの~世界を狭めているのは誰なのか~

ハラスメント

ハラスメント

ハラスメント。月に度は耳にする言葉だ。ある言動で誰かを不快にさせてしまったりすることだ。「それはよくないよね。それって、イジメじゃん?」と思うかもしれない。当然、僕もそう思う。最近は、ブラック会社とかホワイト会社とか、黒か白かで何かを分類する傾向が見られる。僕は気にしないが、人によっては色で善悪や優劣を表すなんて不愉快だと言うかもしれない。

僕が気にしているのは、まさにそこなのだ。今はブラック会社という言葉を使っても、ご指摘を受けたことはないが、このままいくと、もしかしたら既に、そんな感じで、ちょっとしたことでも、不快に感じて指摘する人が出てくるかもしれない。と、思うと、内心、複雑な気持ちだ。

冒頭で書いたが、ハラスメントというのはイジメに似ていて、こちらの意図は関係ない。受け手がどう思うかなのだ。これも正論ではあるかもしれないが、正直なところ複雑な心境だ。善悪の問題ではなくて、本当は、みんなはどう思っているのかが気になる今日この頃だ。というと、まるで僕がハラスメントやイジメを容認しているように思われるかもしれないが、それは違うと、この場でハッキリと伝えておく。

不快ならなんでもかんでもハラスメントなのだろうか。

最近は本当にハラスメントの種類が増えた気がする。というか現在進行形で増え続けている気がする。パワハラ、セクハラ、モラハラ、カスハラ………。なんでもかんでも「それ、ハラスメントですよ!」と言いさえすれば、相手に悪のレッテルを貼ることができてしまう気がしてならない。

なんというか、ゲームに出てくる魔法の呪文か何かのような気がしてならない。「○○は、パワハラの呪文を唱えた! ××の言動を封じた! 周囲が××を軽蔑の眼差しで見つめている!?」こんなイメージが脳内に浮かぶのだ。威力がとても強い気がする。別に、ハラスメントを指摘して悪いわけではないが、なんでもかんでも、ハラスメントという言葉で片付ける風潮は危険だと思う。

ハラスメントという呪文がもたらす弊害。

相手の不快な動きを封じたい気持ちはわかる。しかし、なんでもかんでもハラスメントだと言って相手の言動を封じ込めれば、世の中が良くなるのかというと、それとこれとは別問題な気がしてならないのだ。

そもそもハラスメントと言われるような言動をとる人がいけないというかもしれない。その通りだ。その通りなのだが、それもまた極論なのだ。どういうことかといえば、相手にハラスメントのレッテルさえ貼ることができれば、即座に相手を極悪非道の有害極まりない人間にすることができてしまうということだ。

自分のメンタルが弱っていたり、冷静な判断ができなかったり、機嫌が悪かったりしたときって、ぶっちゃけ、誰かに八つ当たりしたくなったり、悲しみや怒りの矛先を自分以外に向けたくなったりしないだろうか。自分の視界に入っているだけで、不快な気持ちになり、その人の目つきや声の大きさ、見た目が威圧的だと感じてしまう。なんだかわからないけど、その人に対してものすごく腹が立ってきた、なんてことはないだろうか。

ない、と答えて欲しいところだが、自分の気分次第で相手の見え方は不思議と変わってしまうのだ。たぶん、それが人間なのだ。たとえば、よく怒られる人がいたとする。そういう人は、全員ではないが、無意識的に、みんなが、自分の落ち度を指摘してきたり、怒ったりしてきそうな気がすると思い込む。そうすると、出会う人の多くが警戒対象になり、自分に恐怖感を与える存在になってしまうのだ。

握手を想像して欲しい。「痛ッ!? わざと強い力で握りましたね! 物理的なパワハラです!」といえば、相手は暴力的な存在として認定されてしまうのだ。じゃあ、ものすごく弱弱しく握手したとします。「なんですか!? その気持ち悪い手の握り方は! セクハラです!」といえば、相手は瞬時にしてイヤらしい存在として認定されてしまう。ちょっと語気を強く、周囲に聞こえるように言えば、効果抜群。一気に相手を陥れることができてしまうのだ。

仕事面でもそうだ。リーダーが決めたことに対し、なんでもかんでも反抗する人って一定数いるものだ。そういう人に注意するのもリーダーの仕事だが、注意したらパワハラ呼ばわれされてしまうと、これがまた厄介だ。最悪、職を失う。仕事をお願いしても、それをパワハラだと言われたら、そんなつもりがなかったとしても、パワハラになってしまうのだ。

リーダーが必ずしも百点満点な仕事ができるとは限らないが、いちいちリーダーにハラスメントのレッテルを貼っていたら、仕事にならない。逆に貼る側は、ある意味、リーダーを弱体化させて楽して稼げるようになるかもしれない。でも、そんなことをしていたら会社は潰れてしまうだろう。

本音。

これはあくまでも僕の意見だ。だからそれが正解ではないかもしれない。でも、本当のところ、あなた自身はハラスメントに対してどう思うのかを考えるきっかけにして欲しい。正直に言えば、僕もイヤなことはたくさんある。理不尽なこともたくさんある。だが、じゃあ、自分なら誰も傷つかず、みんなが平和で、生活を安定させてあげることができるのかというと、残念ながらできない。だから、辛いことにもイヤなことにもある程度は耐えている。

耐える美学を推奨しているわけではない。耐えずに、気に入らない相手に対してなんでもかんでも「ハラスメントだ!」と言って陥れることも可能かもしれない。だが、それは、ある程度はお互い様だとも思っている。本当にあからさまに迷惑極まりなく、不快な言動をされたらハラスメント認定だと思うが、ある程度は、「ま、しょうがないか………」と妥協できないと、逆に生きづらくなってしまう気がする。

僕も、人生でハラスメント的な言動を受けたことは数えきれないほどある。その都度、「なんて、デリカシーのない人なんだ!?」と思ったりもしてきた。心に大きな傷を負ったこともある。同じ人とは限らないが、別の場所で別の人に同じような言動をされると「またか……。このパターン、一生続くのかな……」と自信喪失して泣きたくなったことも数えきれない。

でも、逆に僕も多くの人を傷つけてきたと思うし、迷惑をかけてきたと思う。本当に申し訳なく思うが、時間はかかっても、少しでも成長できて、もっと良い生き方やコミュニケーション方法ができるようになればと思っている。お互い様では済まされない問題もあるが、済ませられる問題は、多めに見てあげる心も持ちたいと僕は思っている。

かつての僕は心が狭く、思い出したくもないが、どちらかといえば今でいうクレーマーだった。相手の気持ちや立場など関係なく、すべて自分中心に物事をジャッジしていた。自分は悪くない。こんなに不愉快なのは相手のせいだ。相手には少し痛い目を見てもらうくらいがちょうどいいだろう的な発想だったと思う。

でも、よくよく考えれば、そうやって小さいことでも相手にケチをつけて、少しでも自分を優位に立たせようとしていたことの繰り返しが、つまらない人生の種だったのではないかと思う。不思議なもので、人は少なからず自分だけは正しいと思っている節がある。「私は悪くない」「○○は間違っている」「間違っている相手なら罰しても構わない」という奇妙な心理プロセスが発生してしまうと、『自称正義』という名のスーパーヴィランが誕生してしまうのだ。

人によっては『被害者の皮を被った加害者』になってしまう。小さい子どもによくある話でもある。泣けば被害者になれるのだ。自分が悪くても。そうすると悪いことはしていないにもかかわらず、結果的に泣かせてしまった側は悪のレッテルを貼られてしまうのだ。末恐ろしい子どもだ………と、思わなくもない。だが、自分も子供の頃、泣けば許されると無意識的に思っていた気はする。戦術としては正しいのかもしれないが、それは必ずしも正義ではない。

ハラスメント・シンドローム。

なんでもかんでもハラスメントという言葉で片付けたがる風潮を僕は『ハラスメント・シンドローム』と呼んでいる。ハラスメント疑惑がながれると、該当者を罰し、予防策として、細かいルールができる。それが平和の為だというのはわかる。だが、「あれはハラスメントですね」「これもハラスメントですね」と言うと、その都度、誰かにレッテルを貼り、再犯防止といって、わけのわからない細かいルールができてくる。

「え? そんなことも許されないの?」というレベルのルールも、どんどん増えてくる。もっとも、この「そんなことも」のレベルが人によって感じ方が違うので難しいところではある。だから、共通認識として、どんどん具体的なルールが増え、些細なことでもNG行為に接触の恐れがあるとされてしまうのだ。これでは身動き取れなくなってしまう。

本当のハラスメントは別だが、情状酌量の余地のある微妙な言動だって絶対に存在する。というより、そうせざるを得ない状況だって必ず存在する。もし、誰もが、相手の顔色を窺って、警戒し、ハラスメント疑惑をかけられないように生きていたら、誰も本心を話せなくなってしまうと思う。反町隆史風に言うなら「ポイズン」だ。若い人には通じないかもしれないが、興味のある人は検索してみて欲しい。

言いたいことをなんでもかんでも言えばいいわけではない。厳密には、それこそが、デリカシーの欠片もない、空気を読めない、ハラスメントだと思う。だが、自分の人生や生命に危機が迫るようなことは別としても、ハラスメントの沸点を自分の中でもう一度、考え直してみると、もしかすると、ある程度、気が楽になるかもしれない。

相手を陥れることよりも、自分の立場を優位にすることよりも、保身よりも、お互いにしあわせになれるアプローチに意識をシフトしていきたい。




  

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