ココロセラピストが語る!?「バカなの?」おばさんに学ぶ~落ち着いて行動すればリスクを最小限にできる~

行列

空気を読もう。

空気は大事だ。呼吸する法の空気ではなくて、場の雰囲気の空気だ。率直にいう。空気を読もう。「空気なんて読まなくて良い」は嘘だ。賢い人は空気を読んだうえで、自分がどう立ち振る舞うかを決めているだけだ。空気を読まない人はカッコいいと思うかもしれない。場の空気をぶち壊し、大胆に空気感を変える。そんなイメージが浮かぶかもしれない。確かに、そういう人もいる。だが、その人は、ほぼ空気は読めている。何も考えず暴走しているわけではない。

空気を読み、敢えてその空気感を壊すという試みをしているのだ。だが、本当に空気を読めない人は、場を乱すだけで状況を良くすることはまずない。一層、気まずい空気感が充満してしまう。少なくとも、それはカッコいいことではない。自己弁護しておくと、決して空気が読めない人を悪人と言っているわけではない。空気を読む能力と善悪は関係ない。

「バカなの?」おばさん。

先日、初詣に行った時の事だ。社務所(売店のようなところ)は行列だった。みんな、お守りやら交通安全ステッカーやら、その他もろもろを買うために並んでいた。なので、買うために並ぶのは良いがお守りの種類も近くに行かないとわからないので、並んだら列から抜け出すのも大変だった。社務所の受付(レジ?)の上の方に大きく、お守り(商品?)が印刷して掲示してあったが、僕は目が悪いので、いまいちよくわからなかった。だが、せっかくの正月だし、こうして無駄(?)に並ぶのも風流かなと思い、静かに列に並んでいた。

すると、目の前にいた女性が、突然「バカなの?」と言い出した。どうやら隣にいる夫らしき人物に対して言っているようだった。突然、暴言を吐き出す女性に僕は一瞬躊躇した。何故、暴言を吐きだしたかいまいちわからなかったが、ブツブツと文句を言いはじめ、そして、相手の返事も待たずに一方的にまた「バカなの?」と言っていた。

盗み聞きをしたわけではないが、その「バカなの?」おばさんがずっとブツブツ言っていたので、なんとなく内容は理解できた。下らないので省略するが、別に夫らしき人に落ち度はなさそうだった。というか、誰にも迷惑をかけていない。さらにその夫婦(?)が並び始めた数分の間に、「バカなの?」おばさんの機嫌が悪くなり、怒りの矛先が夫(?)に向かってしまったのだと思われる。

僕は、その夫婦の真後ろに並んでいたから、申し訳ないが、その夫(?)が愚かな言動をしていたのなら、僕にもわかったと思う。だが、僕が認識している限りでは、冤罪だ。強いていうなら「バカなの?」おばさんにとって、夫(?)の存在が許せなかったのだろう。その時の自分の気分の影響で。

「バカなの?」おばさんは、しばらく、その決めゼリフを繰り返していた。あまりにも「バカなの?」おばさんが、しつこいというか、空気が読めないというか、情緒不安定過ぎるというか、邪悪なオーラを放ちまくっていたので、徐々に僕もその空気に飲まれて邪悪に染まっていきそうだった。新年だというのに。しばらくすると、その夫婦は普通(?)の会話はじめたようだ。さすがに詳細はわからないが、どうやら場の空気は落ち着いたようだ。

夫の判断。

僕は、その夫に対し、すごいと思った。もし、僕なら、理不尽な言いがかりを付けられたら自己弁護するだろう。だが、そんなことをしても火に油なのだ。この手のタイプは正論が通じない。自分の機嫌が悪ければ、相手は悪であり、愚か者なのだ。と、偏見極まりなく言い切ってしまったが、できれば関わらない方が良いタイプだ。

夫は経験上(?)、相手の暴走パターンと暴走レベルを瞬時に判断したのだ。そして、敢えて自己弁護せず、反論もせず、ひたすら言いたいだけ「バカなの?」と言わせてあげたのだ。通常は興奮状態の人がいるときは距離を置くのがベターだ。だが初詣の行列でそれはできない。

彼は空気を読み、リスクを最小限に抑えるために敢えて「バカなの?」攻撃を受け、何一つ反論せずに耐えたのだ。そして数分後には、何事もなかったかのように普通の会話に戻せたのだ。もし僕が「あの、ちょっと迷惑なんですけど……」なんて、言ってしまったら、それこそ「バカなの?」おばさんの標的は間違いなく僕になっていただろう。列は乱れ、罵詈雑言の嵐になっていただろう。そして、その空気の影響を受けた周囲の人たちもどんどん不機嫌になり、大問題になっていただろう。

空気を読めたからこそ、最低限のリスクで済んだのだ。これは大事なことだが、不可抗力の事態というのは、多かれ少なかれある。どんなにトラブルが起きないように注意しても、起きるときは起きるのだ。そんな時こそ、空気を読み、冷静な判断をして立ち振る舞うのだ。そうすることで、無傷とはいかずとも、傷は小さくて済む。

とはいえ、夫(?)の判断が本当に正しかったかどうかは誰にもわからない。あの場、あの状況で、僕の視点から見たぶんには正解だと思う。だが、いつでもどこでも黙って耐えているのが正解とは限らない。時には過ちを正すために、争いになるリスクを覚悟し、何らかのアクションを取った方が良い場合もある。結局は皮肉な話だが、結果次第なのかもしれない。

正月の学び。

この話は、些細なよくある話かもしれない。だが、僕はとても大きな学びを得られた。まず、僕は列にならんでいて、周囲は混雑した状況だった。つまり逃げ場がなかったのだ。

なので、「バカなの?」おばさんに対しては正直、良い印象はないというか迷惑だなと思った。だが、逃げ場がないのは夫(?)も同じだ。そんな状況下で、瞬時にして最適解を導き出し、耐えるという覚悟を決め「バカなの?」攻撃を数分にわたり受け続けた。その結果、怒りは静まったのか、少しだけ大人しくなった。決してハッピーエンドとは言い難いが、彼は間違いなく場の空気を換えたのだ。

自分でいうのもなんだが、僕は気が短い。いつでも自分が正しいわけではないのは百も承知だ。だから、あからさまに理不尽なことを言われたり、されたりしたら僕は、怒ってしまう。理不尽なことを言われて怒るのは正当な権利だと思う。でも、空気を読まずに、正当な怒りをそのままぶつけても決して快方に向かうとは限らないのだ。理不尽な方があきらかに問題だ。だが、状況を理解できずシンプルに正攻法で行けば正解と思っているなら、それは『KY』(死語)だ。

意味不明かもしれないが、正解だけが正解ではないのだ。臨機応変というのは、決して優柔不断なことではない。その場、その時、あるいはその先の未来にとって、少しでも快方に向かう想像力をはたらかせることなのだ。僕たちは、決して、そのことを忘れてはならない。

追伸

できれば自分もそうなりたくないし、関わりたくないが、「バカなの?」おばさんや、そのケのある人たちが、少しでも心穏やかに過ごせますように。そして、みんなが理不尽なことに巻き込まれませんように。




  

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