ココロセラピストが語る!? 良いときも、悪い時もあるんだよ。~みんなで優しくなろう~

3月

3月になると思い出す。

3月になると思い出すことがある。それは、2011年の311だ。当時は日本中から当たり前の日常が消えた。僕自身は特に大きな実害があったわけではない。だが、TVやネットでは信じがたい情報がたくさん流れ続けた。まさか、こんな日が来るなんて。そう思った。だが、それが現実だった。これから先の未来は一体どうなってしまうんだろうと不安になった。自分の人生を考え直さざるを得ないターニングポイントのひとつだったかもしれない。当時は、世界中が日本を応援してくれたと記憶している。僕たち日本人自身も、みんなで力を合わせて日本を元気にしようと頑張っていた気がする。みんなが、命の尊さについて考えていたと思う。

時は流れ、記憶は薄れてきた。だが、直接的に大打撃を受けた人たちにとっては、簡単に忘れられることではないと思う。どうか、その人たちの心が少しでも癒されますように。そして、世間から忘れ去られているかもしれないけれど、認知されていないかもしれないけれど、回復していない地域があるのだとしたら、物理的にも回復しますように。

新型コロナ。

僕たちを不安と恐怖に陥れたものといえば、2019年頃から流行りだしたコロナもそうだと思う。未知なるウィルスが世界を覆ってしまった。たぶん、今も、詳しいことはわかっていない。正しい対処法も、今もたぶん謎だ。たくさんの噂や陰謀論が流れ、考え方も様々だ。最近は、徐々に規制緩和されてきた。だが、アバウトな規制緩和だからか、僕たちの中から不安は相変わらず消えない。不安は消えないが、妙な慣れもあるのか、同時に危機感も消えてきた。

心の緊急アラート

311の地震もそうだが、予測不能、かつ想定外の出来事があると本当に人間というのは心が弱ってしまう。こういう場面に直面すると、心の緊急アラートが敏感に反応するようになる。次に来るかもしれない脅威に対して警戒しなければならない本能だ。とはいえ、それがまた厄介で、驚異的な場面に直撃してしまうと、今度は心のアラートが止まらなくなってしまう。これはきっと、僕だけではないと思う。

今は大丈夫だが、311当時は、小さな揺れがあっただけで過剰に反応してしまう自分がいた。コロナ禍では、僕はそうでもなかったが、周囲に体調不良者が出ると、感染者なのではないか、知らず知らずに自分は濃厚接触者になってしまっているのではないかと過剰に警戒してしまっていたりしていた気がする。度が過ぎると魔女狩りになってしまうので、それはそれで怖かった。

心の緊急アラートは身を守るための本能ではあるが、止まらないと、それはそれでメンタルがやられてしまう。例えがわかりにくくて恐縮だが、スパーダーマンをご存じだろうか。彼は特殊能力で脅威が迫ってくると、スパイダーセンスというものが発動する。これがあると、敵の攻撃を予測できたり便利な側面もあるのだが、鳴りすぎると、それはそれで彼自身が参ってしまう。

フィクションとはいえ、ものすごく気持ちがわかる気がする。なんだろう。止まらない目覚まし時計みたいなものだろうか。「わかったよ。わかったけど、どうすればいいんだよ……」という何ともいたたまれなくなるこの感覚。

歴史に残るような出来事ではなくても個人個人で何かしら酷い経験をしたこともあるだろう。

なんとなく311やコロナを思い出したのだが、悲惨なことは、それだけではない。人間は生きていれば、少なからず何度かは悲惨な目に遭う。場合によっては、それが人生の足かせになってしまう人も少なくないと思う。そういう意味では僕は311もコロナも、それほど大きな影響はなかった。コロナに関しては今も厳密には解決したわけではないから何とも言えないが。

だが、個人レベルで言えば、人生が終わったかもしれないと思った時期は幾度かはあるものだ。周囲の人間からすれば「そんな大げさな……」とか「悲観的だね……」とか、思われるかもしれないが、本当につらいときはつらいし、悲しいときは悲しいものだ。世界からすれば小さな問題かもしれないが、個人からすれば人生がかかっているだけに大問題なのだ。

僕たちは、天変地異のような脅威に対する対策も大事だが、個人的な脅威に対しても、もっと理解を示す必要があると思う。たとえば、怪我をした。病気になった。仕事を失った。イジメにあっている。家庭が荒れている、などだ。それも「へぇ」という感じかもしれないが、当事者からすれば死活問題なのだ。こういう時に何がつらいかというと、理解や共感されにくいことではないかと思う。

一時的には同情されるかもしれないが、本人の中で現状打破の見込みが持てるまでは、正直、ずっと苦しいと思う。少なくとも僕はそうだ。身体的にも、経済的にもつらいだけでなく、精神的にもかなりつらい。こんな時は本当に自分を見失ってしまう。見失ってしまうから、冷静さも失ってしまう。そうすると、周囲から奇人変人、迷惑な人のように思われてしまう。これがまたつらく、悲しい。というより、それがいちばんつらく、悲しいのかもしれない。

優しくなろう。

大きな脅威も時とともに記憶から消えていく。それは、過去に引きずられていても仕方がないということもある。そして、それでも僕たちは明日を生きるために何らかの活動をしなければならない。生きるとは大変なことで、明日の生活を守るために過去を思い出している場合ではないのかもしれない。それはそれで、悪いことではない。よく言えば未来志向なのだろう。

だが、大きな脅威の記憶が薄れても、身近なところに大きな生きづらさを抱えている人たちがたくさんいることは忘れないで欲しいと思う。僕も、忘れないでいたいと思う。僕は幸運なことに、とりあえず最低限の衣食住はある。それなりに元気に生きていられる。これはとても素晴らしいことで感謝すべきことだと思う。だが、自分が元気だと周囲も勝手に元気だと思い込んでしまう。実際は、心の中で悲鳴を上げている人たちだってたくさんいるのだ。

生きるために、泣かず、叫ばず、無理して作り笑いをして、元気な演技をしている人たちは数えきれないほどいる。「泣いても良いんだよ」とか「弱音を吐いても良いんだよ」とか、僕も言ってしまうが、何処で誰の前で泣いていいのか、弱音を吐いていいのかを考えるのも実は難しいと思う。不要な叱咤激励や助言で追い打ちをかけられてしまうことも多々あるからだ。

ずっとネガティヴな話をしてきたが、何を言いたいかというと、みんなで、少しずつ優しくなろうということだ。みんながみんな、大きな問題を解決するのは難しい。誰かの悩みを消してあげることも難しい。だが、問題そのものは解決できなくても、自分自身が生きていても良いんだと思える環境があれば、それだけで心は癒されるし、生きる糧となる。

これは僕自身の課題でもあるが、もっと自分や他人を大切にしていきたいと思っている。自分にできることなど、たかが知れている。だが、その「たかが知れている」ことを、みんなが忘れずに実行し続ける習慣を身につけたら、今よりはきっと良い時代になるのではないかと思う。

人生には波がある。劇的ではなくても、良いこともああれば、悪いこともある。どちらかといえば、人生は悪いことの方が多いかもしれない。でも、だからこそ、小さなありがたみを感じられるのかもしれない。善意も時には有難迷惑だったり、意図しない悪い方向に進んでしまうこともある。だが、それでも、他者を本気で大切に思っているのであれば、その気持ちは持ち続けて欲しい。

知らず知らずに誰かを追い詰めてしまっていないか。もしかしたら、周囲に困っている人はいないだろうか。自分にできることはあるだろうか。そんな小さな気配りの連鎖を広めていこう。僕はちっぽけな人間かもしれない。でも、もしかしたら何かの役に立てるかもしれない。もし、僕に何か役立てることがあったら、こっそり教えて欲しい。



  

《ココロセラピストTATSUMI さんの記事一覧はコチラ》