ココロセラピストが語る! 『自分という存在って一体』とは? ~どれが私・オブ・マッドネス~

自分

ドクターストレンジ2を観た!

疲れが抜けないままではあったけれど、観られました、ドクターストレンジ(映画)。

今回のサブタイトルは『マルチバース・オブ・マッドネス』です。タイトルからわかるように、マルチバースのお話です。
僕はMCU(一連のMARVEL映画群の呼称)が大好きなので、本当に楽しかったです。

マルチバースって何、という話をします。日本語で言うところの多元宇宙のことです。それも、意味が分かりづらいですが、簡単にいうと、似たような世界が他にもたくさん存在しているということです。

たとえば「嗚呼……なんか、僕、いつもぐったりしてるな……。もっと気力体力が充実していて今とは違う生き方ができたりしないだろうか……」なんて思ったとします。一方で、実はそういう設定の僕という存在もいるかもしれないということです。ただ、僕をTATSUMI-Aとすると、気力体力が充実したTATSUMI-Bは別の世界線を生きているので直接関わりあうことはありません。

 

マルチバースの自分は自分なのか?

映画の感想というより、思考実験というか、あなたならどう思うのかを考えながら一緒に自分自身という存在について考えていきましょう。ちなみに、映画の世界観で複雑に考えすぎると純粋に物語を楽しめなくなってしまうと思うので、それはそれ、ということで。まだ観たことのない人は、ここまでスルーで。

たとえば、自分がA。違う世界線の自分がB。更に違う世界線の自分をCとします。でも、これって本当にどれも自分だと言えるのでしょうか。……なんて考え始めたら眠れなくなるかもしれません。

たとえば、何らかのきっかけでBやCの存在を知った、つまりマルチバースの自分の存在を知ったとします。自分であるAはブラック会社に必死でしがみついている。Bは同様不本意ながらブラック会社に属してはいるが福利厚生が何故かが良い。CはAの理想の自分そのものだが会社が倒産しそうだ。

たぶんBやCの存在を知ったら、きっと僕なら、驚くだけ驚いたら、その次には、きっと『比較』を始めてしまうのではないだろうかと思います。「B、いいな……」「Cは結果的に会社が倒産しそうなのは仕方ないとして羨ましいな……」なんて思ったりするかもしれません。たぶん少なからず「今の自分よりよさそうだ……」と軽く嫉妬したりするんじゃないかと思います。

じゃあ、Aが必ずしも惨めでBやCがしあわせなのか。そんなのわからないですよね。だって、Aである自分はBやCとして生きたことがないのだから。

そう考えると別の世界線に自分と思われるキャラクターが存在しても、それって厳密には自分ではないですよね。DNA的に100%同質だとしても。

では違った設定で改めて考えてみましょう。
私はA。次の自分はDとE。育った環境も知力も体力も環境も、まったく一緒。もしAである自分がD、Eの存在を知ったとします。そしたら、Aである私は何と思うのか。たぶん「代り映えしないな……」程度で特に感慨深さもなければ、「あ、そう……」程度の認識なんじゃないかなって思います。もしかしたら「まあ、どれもこんな感じだよね……」なんて思うかもしれません。ではここで、急にDの世界線だけが宇宙人の侵略で崩壊してしまうことがほぼ確定したとします。つまり、別世界線上の自分が消滅してしまうということです。

ぶっちゃけ、これって悲しいですか。もちろんそれなりには悲しいと思うんです。でも、どこかで「私じゃなくてよかった……」って思ったりしませんか。だとすると、ここがポイントで。結局のところ、マルチバースが存在しようとしなかろうと、私は私なんじゃないかなと。

では、さらに別の可能性を考えてみましょう。
Aである自分の世界線。謎の病気が蔓延してしまいました。物価が急上昇してしまいました。外出もままならなくなりました。隣国との関係も悪化してきたようです。もしかしたら、これからどんどん自分の世界線は悪化していき、そんな世界で生きている私には、しあわせはなくなっていくかもしれない。でも、先ほどまでは同じルートを歩んできたEの世界は、そんな状況にはなっていないようです。これから先の未来が開けているかどうかはわかりませんが、現時点でAの世界戦よりは危機は少ない感じです。

ここで謎の科学者、あるいは魔法使いが登場してEの世界線にAの意識だけを移し替えてくれると行ったとします。
Aであるあなたは、なんと返答しますか。ちなみに、Eの身体を乗っ取ることは可能ですが、Eの意識は消滅するか、Aと入れ替わるか、それとも別の何かが起こるかは不明です。
そして、それをしても誰にも気づかれないし、誰に責められることもありません。家族も友達も、世界線が異なるだけで今までと同じように接してくれます。

もしかしてもしかすると「どうせ、同じ私という存在なんだから、器を変えたって別にいいじゃない……?」なんて思ったりしませんか。どうだろう。僕だったら、そういう気持ちも浮かんでくると思いますが、その時点で混乱してしまいそうです。

少なくとも、こういうことを考えていると、やっぱり自分がAだとすると、BやC、DやEに対して親近感は湧くと思うけれど、やっぱり自分自身そのものではないのかな、と思ってしまいます。もちろんそれが正解か不正解かは知りません。

 

もはや私は既に私ではない?

仮に、Aである自分がE世界線でEとして生きられたとして。もし、他のバースの自分がなんらかのきっかけで、平和であるこの世界線の自分の身体を乗っ取ろうとしても、それもまた不思議ではなくなるんですよね。だって、自分だってそういう考えに至ったわけなのだから。

ということは、自分が別の自分に乗っ取られて入れ替わっていても、僕という存在は何かしらの形で存在し続けるわけです。かつてAだった自分自身さえも、その存在を忘れてしまって、というか消えてしまっていても。それでも、自分という存在は、きっと自分自身という存在なのでしょう。

デカルトは「我思う、故に我在り」といいました。

ところで我を我と認識したのはいつだったっけ。
今この瞬間の我って、本当に昨日の我の延長線上にいるのでしょうか。

あれ、ここはどこ? 私は誰?

 

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