『対人恐怖症』というものがあります。社会不安障害とも呼ばれています。
これは、人と接することが困難だったり辛かったりするので『ぼっち』ではありません。
『うつ病』も人と会いたがらない傾向があります。ただ、彼らは人間を必ずしも憎んでいるわけではありません。メンタルの具合が良くないので人と接する余力が無いのです。具合が悪くなければ、人と普通に接しますし、『ぼっち』として生きたいわけでもなんでもありません。
『自虐ぼっち』は、単に誰にも相手にされない(と勝手に思い込んでいる場合もある)ので、自虐的に『ぼっち』と言っているだけで、相手さえいれば『ぼっち』ではいたくないと言う人もいると思います。病気ではありません。自虐しても何の生産性もありませんので仲間を作れるように何らかのアクションをするのがベストです。
もし、そこで「どうせ私は一生誰からも相手にされないのよ……」とか「どうせ私は嫌われ者なの……」とか悲観的な考えに支配されてしまっているのであれば、迷わずカウンセリングを受けた方が良いです。蛇足ですがカウンセリングとは必ずしも病名のある方が受けるものではありません。心を整理整頓したい人には、お勧めです。
『イジメ被害者』は、気の毒でなりません。好き好んで一人で行動しているわけではありません。イジメ加害者に近づくと何をされるかわからないので近寄れないのです。
結果的に、それが原因で『ぼっち』になってしまう人もいるかもしれません。『ぼっち』の人が心配なら、まずはイジメを疑ってみて下さい。イジメも何もなく、単に一人が好きなだけだったら、そっとしておいてあげれば良いですし、イジメが存在していたら総急に手を差し伸べて下さい。イジメでは無くても周囲に気の合わない人たちばかりいたら、消去法で『ぼっち』の道を進む場合もあります。
一方で、イジメられているが故に、そのグループから抜けられない人もいると思います。なので、誰かと一緒にいるから良い事だとも言い切れません。関わる人間の見極めが大事になって来ます。
『ぼっち』と絆
『ぼっち飯』が好きなのは構わないと思います。ただ、意識を向けて欲しい事があります。
家族です。家で食事をする際は、できれば家族で一緒に食べて欲しいと思います。現代はシフト制の仕事が多く、働く時間もバラバラです。土日が必ずしも休みというわけではありません。なので一緒に食事をするのが難しい環境の方も少なからずいらっしゃると思います。しかし、家族と一緒に過ごせる時間というのは、永遠ではないのです。大人になったら新しい家族を持ち、両親と接する時間が減るかもしれません。兄弟も、ずっと一緒に暮らせるわけではないのです。
あまりいないと思いますが、こんな話を聞いた事があります。食事が出来ると、子供たちはそれを取りに来ます。そして各自それを持って自分の部屋に持って行って食べるそうなのです。
おそらく、お母さんが働いているか何かで一緒に食べられない日が多かったのかもしれません。だったらなおのこと、家族がそろっている時くらいは一緒に食事して欲しいのです。
「一緒にご飯食べようよ!」とお母さんからでも、子供からでも一言出ると、関係性はきっとプラスに転じるのではないかなと感じました。
こんな事もありました。ある時、某ショッピング・モールのフード・コートに行きました。ある親子連れが食事をしていました。フード・コートなので、それぞれが好きなお店の商品を買ってきて食べるのはもちろん良いです。ただ、その光景には違和感があったのです。子供たちが、みんな『ながら族』だったのです。1人はゲームで遊びながら食事をしていました。もう1人はコミックを読みながら食事をしていました。お母さんも、特に気にした様子は無く黙々と食事していました。
家族で一緒に食事(しかも外食!)しているのに『ぼっち』なのです。
「とりあえず、何か食べさせておけばいいでしょ……」と思っていたかどうかはわかりませんが、何か寂しさを感じました。個人を尊重して自由にさせると言うには、少し意味が違う気がしました。
最低限の食事マナーも家族と食事して覚えるものです。ご飯に箸を立ててはいけないとか、箸と箸で食べ物を取ったり、つついたりしてはいけないとか、食べ散らかしてはいけないとか、そういう些細な常識です。でも、家族で一緒に食事をしないで育つとそう言う事も知らないまま育ってしまいます。それこそ「食事しながら別の作業をするんじゃありません!」とビシッとお母さんなり、お父さんが言ってくれた方が、子供たちにとって役に立つのです。
会話も、誘導的ではなく各々が自然に自己開示をしてくれたら余計な心配もしなくて済みます。共感したり、笑ったりしながら食事した方が感情面でも良い影響があります。
話題が無くても「おいしいね!」「そうだね!」「それ、ちょっと分けて!」「いいよ!」という、たったそれだけのやり取りでも充分です。子供はあっという間に大きくなってしまいます。
大人になって、ふと思い出す日常、特にコミュニケーションは人生にとってとても大きな宝物になります。それを何事もなかったかのようにスルーして育ってしまうと、大切な何かを得られないまま大人になってしまうような、そんな気すらします。
もちろん家庭の事情でそれが叶わない人もいます。それをどうこう言うつもりはありません。しかし、叶う環境にあるのであれば、その瞬間瞬間をもっと大切にして欲しいのです。
確かに家族だから必ずしも仲が良いとは限りません。家族であろうと血がつながっていようと相性が良いわけではありません。だから、出来れば家族一緒に食事をして欲しいですがそれを強制するつもりはありません。ただ、関わるとロクなことがないとか、嫌がるのに食事中にタバコをプカプカ吸ったりして指摘したら怒られたとか、そういう相手の場合は仕方ありません。
ただ、そうではない場合は可能な限りぜひ家族一緒に食事して下さい。人間関係は接しているうちに深まって行くものです。24時間誰かとずっと一緒にいることはないのですから、せめて食事のときだけでも家族とコミュニケーションを取って欲しいのです。
もしかしたら『ぼっち』のネガティヴなイメージの根底には、そのような幼少期の本来ならば通過すべきポイントをスルーした延長に存在するというものが見え隠れしているからかもしれません。
そういう『ネガティヴぼっち』も確かにあります。ただ、そう言った意味合いではなく『ぼっち』の悪くない側面も大事にできたら良いのではないかと思います。
『ぼっち』とは決して孤独というわけではなく、人から逃げているわけでもなく、状況に応じて人とのコミュニケーションもできる。自分の意思で一人の時間を大切にし、結果的に一人で行動している事が多い人の事を言う。
こんな定義、どうですか?