Trinity WEBピックアップ映画レビュー「陽だまりハウスでマラソンを」

年齢や環境などの常識という名の姿無き既成概念に縛られず、生き抜く人々を描く!

常識と非常識
純粋さの前ではそのどちらも不要!

 

私たちが作った社会には実にたくさんの制限がある。

○歳までにはこうすべき

○○のときはこうしてはいけない

そんな善悪を分ける概念には、ご丁寧にそれに即したお約束の筋書きも用意されている。

生後このくらいで首が座り、○○歳を迎える頃には夢精をする、初潮を迎える、反抗期がある……。

そんな筋書きに沿っていたら、自分らしさってどうやって育めるのだろうか?? そんな疑問を持ってしまう。もちろん、身体の育成発達の基準があるのは子育てをしている親にとって大切なものだからこそ十分に注意をしていなければ、他者との比較が始まってしまう……。

しかし私たちは、その筋書きから外れてしまうことを恐れていて、なかなか外れようとはしない。世の中に組み込まれていることを安心だと感じるからではないだろうか。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と、ルール違反者を皮肉ったり、違反者の開き直りを表したりするフレーズにも、世の中の集合意識から外れないようにしなきゃという筋書きが見える。

本作でも、“老齢になったからこうしなければならない”という筋書きが創り出した一つのフォームに人をはめ込もうとする人々がいる。主人公は妻を愛するマラソンの元オリンピック選手で、かつては彼の走る姿が多くの人に希望を与えたという伝説のランナーだ。

愛する妻はランナーである夫を支えるコーチでもあり、彼を公私に渡り支えてきた功労者だが、足腰が弱り、病を患ってしまう。

心配だがキャビンアテンダントの仕事を持つ一人娘は決心する。両親の家を売り、養老施設に入所する手続きをするのだ。

「陽だまりハウス」sub1

4人に1人が高齢者となった現代日本。自分の家族構成を振り返り、施設に入ることになってしまった両親側や、手続きをした娘側に我が身を置き換える人もいるだろう。

ハイ、そこです!

そのときあなたの意識は、集合意識が合意して作った筋書きに沿った思考で自分や親、子どもを当てはめているのです。そのときは感情移入して、ああ〜そろそろ考えなければ、から始まり保険、介護、施設、お金とか頭の中に色んな単語とその連想が飛び交っている状態にあります。

地球時間で70歳を越えても、マラソンしたってべつにいいんじゃないでしょうか。NYで個展を開く100歳近い日本人アーティストもいますし、インスピレーションを追求して、糸電話を楽器にしたストリングラフィーを考案し世界で演奏している人もいます。彼らは、既成概念という集合意識が創り出した筋書きから外れたのです。

仲良しや希望に溢れた姿は
それだけで周囲を温かい空気で包み込む

本作の主人公夫妻は、入居した施設のカリキュラムに違和感を覚えながらも折り合いをつけようとした。が、年老いたら情熱を燃やすことは諦めろといわんばかりに、用意した老人用の概念を押し付けられることに耐えきれず、自分を取り戻そうとするパウル。施設の誰も彼が伝説のランナーだったことを知らない。彼はこう告げられる。「施設の庭を走らないでください」と。パウルはただ自分の目標に向かって走っているだけだったが、入居者たちは明らかに影響を受けていたのだった。

集合意識というのは、人が複数集まればそこで形成されてゆく。たとえばクラスの荒くれ者に対しては皆同様にちょっとした警戒心を持つ。それが継続することで、特定の人に特定の役割を無言のうちに任命しているようなものだ。そして当の本人もその状態を受け入れてしまうというのが、集合意識の集団催眠的要素でもある。

するってーと、福山雅治を多くの人がイケメンと言うが、もし人類の大多数がそうではないと認識したら、彼はイケメンではなくなるのだろうか……!? あ、いや、失敬。

「ベルリン・マラソンに出場する!」と宣言するパウルのとんでもない、しかしひたむきな姿を見て、最初は呆れ顔だった入居者たちの記憶が蘇ってくる。次第に若き日のパウルの走る勇姿にどれだけ救われたかが思い起こされ、いつしか施設の庭には既成カリキュラムを放棄した入居者たちの応援団が。

Sein letztes Rennen

当然そんな状態を施設側が快く思うわけはなく、パウルが走っているのは「妻を失う不安からである」と決めつけた。神経科医の診断を強要され、施設への怒りを爆発させたパウルは妻を連れて出て行ってしまう。TV番組に出演しベルリン・マラソン出場を発表後、娘の部屋に身を寄せ、トレーニングを続けるのだった。

ランナーズ・ハイという言葉がある。

「マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚してくる作用(Wikipediaより)」

一定の呼吸と運動を続けることで、脳内麻薬とか脳内モルヒネと言われるエンドルフィンが分泌され、気持ちよくなるようだ。この状態は激しく集中力が高まっているとも言え、故に嫌なことから逃避することもできるのだろう。

夏場『本怖(本当にあった怖い話)』のタイトル曲が流れたり、「ココに人数意外の足が……!!」とズームされたりしたときなんかに、サザエさんのテーマソングを歌いながら耳たぶで耳の穴を押さえると怖くなくなったというか、ひえぇぇ〜という衝撃が80%くらいカットされる(娘談)。

つまり、何が言いたいかというと、パウルも恐れから気を逸らしたかったのだということだ。「自分には走ることしかできない」と言っていたその通りなのだろうが……。でも、気を逸らしたいときってありますよねぇ〜。失恋直後は思い出の曲なんか聞きたくないから、音楽をシャットダウンしたくなるし、ダイエットの最中は、スイーツ特集とかガン見しないで意味なく水着を出してみたりするだろうし。誰だって直視したくないこと、できないことってあります。それがただ老齢だからという理由で誰かに逃げていると決めつけられるのは、かなりシンドイことだと容易に想像がつく。

想像がつくということは、大抵の人が似たような在り方で誰かを決めつけているからだ。決めつける基準はやっぱり、常識という名の姿無き既成概念。

頼れるコーチであり最愛の妻、マーゴも晴雨問わずパウルを支えた。が、しかし、倒れてしまいコーチも続けられなくなってしまう……。彼が最も恐れていたことが起きてしまった。「私たちは風と海のように一つ」と互いに言い合い深く繋がっていた二人なだけに、身体の一部を、いや心が半分に引き裂かれるほどの苦しみだったことだろう。文字通り彼は自失した。自分を失うがあまり妻の幻を見てしまい夜中に暴れ出す。自殺を防ぐためという大義の元、パウルは投薬と拘束によって自由を奪われてしまう。

そんなパウルを解放し自由に走るサポートをしたのは、施設で敵対していた仲間と若手の療法士だった。実際のベルリン・マラソン・レースの最中に撮影されたパウルのラスト・ランはコースの道いっぱいに広がったランナーたちに紛れながら行われたようだ。制限時間は5時間。走行や給水シーンも毎年約4万人が参加するというランナーたちの走るお祭りの中で、この撮影のために9キロ減量したパウル演じるハラーフォルデンが歩を進める。

「陽だまりハウス」sub4

本作は現代社会が抱える高齢化社会、介護、核家族、養老介護施設、病気などが盛り込まれているが、その中で、「加齢すること=自由や希望を失うことではない」というメッセージが流れているように感じる。私的にはやはり、世の中の既成概念による筋書きというガイドラインに沿う時には客観性を持っていようと再認識。そして献身的に夫を支えたマーゴがよく口にしていた「諦めたら全てが終わる」という言葉が今もずっと胸に響いている。

 

■3月21日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

■© 2013 Neue Schönhauser Filmproduktion, Universum Film, ARRI Film & TV

■配給:アルバトロス・フィルム