天才的理論物理学者ホーキング博士を襲った病魔。宇宙の謎を解くという途方も無いミッションを持つ彼がなぜ!? 『博士と彼女のセオリー』(前編)

人間“スティーヴン”とホーキング博士にまつわる人間模様を描いた伝記映画。全ては意味があって起きるというのは本当なのだろうか? 天才の苦悩の乗り越え方

天才的な理論物理学者を突然襲った病魔は
果たして本当に悲劇だったのか!?

 

これは、とてつもない映画です。

 

この映画を観に行くと決めた時から、私の心はひとつの問いでいっぱいになっていました。

それは、何故ホーキング博士の身に、あんなことが起こってしまったのか、という問いです。

若い頃から将来を宿望された天才的な理論物理学者で、宇宙の起源を紐解く可能性を持つ人物

そんな特別な才能に恵まれた人が、その後の”道”となり得る学術的閃きを獲得し、可愛らしい人生の伴侶にも出会ったその直後に、筋萎縮性側索硬化症という進行性の難病にかかり、2年、という余命が告げられる。

この有名過ぎる彼の悲劇的エピソードは、映画の冒頭で彼の楽しそうな学生生活、親友や理解ある教授達との交流、恋のためらいと成就など、幸福な青春そのもの、と言える日々が語られている間もずっと私の心を占め、何故、という想いから逃れることが出来ませんでした。

今の時代、人は様々な”受け入れ”の方法を学んでいるものです。「神は超えられない試練は与ない」とか、「全ては意味があって起こる」などの叡智の言葉は既にポピュラーであり、そういった言葉を悲劇的な体験に遭遇し途方に暮れている時によいタイミングで与えられれば、再生のきっかけにもなるかもしれません。

しかし大抵はその言葉の意味する真理が本当に腑に落ちるまで、実際の苦悩が完全に取り除かれる事は少ないのではないでしょうか。立ち直るために何度も自分に言い聞かせ日々の礎とすることは出来ても、それはあくまでも知的な、理性による努力を伴う考え方の変更に過ぎず、有機的な意味で本当に身も心も立ち直るためには、より深い、真の意味での”納得”が起こる必要があるのです。

そのプロセスは短時間でインスタントに終わる様なものではないでしょうし、またインスタントに終えようとすることで、何故自分はさっさと立ち直れないのか、という類いの、更なる苦しみを生む事さえあり得ます。

人生に起こる悲劇とはそれほど厄介なものなのであり、しかし多くの人はその有機的なプロセスの中で、自分の真のミッションに気付いたり、本当にやりたかった事を始めたりという、大きな変容を体験します。そこでようやく人は、あの言葉、「全ては意味があって起こる」は本当だったのだな、と知るのだと思います。

様々な体験を通じて人は、こうしたポジティブな仕組みが人生にはある、と勘づき始めるものですが、それだけに私は、ホーキング博士の様に、若い頃から自分自身の天性の専門性がはっきりと認識されており、生きる上での真の役割に準じた道を実際に生き始めており、自他共に、人類に黎明をもたらすような役割を担った人物だと、早くから知られている人の身に、あんな悲劇が起こったところで一体なんの意味があるのかという問いから、逃れることが出来なかったのです。

大抵の人が様々な迷いの末に導き出す、自分は何であり、何を本当にやりたいのか、という問いへの答えを彼は既に持っており、才能は迷いも無く花開き、完全に自分の人生と役割に喜びをもって献身している彼に、一体これ以上、何を悟らせる必要があるのでしょうか。

サブ_ホーキング博士

彼の疾患が脳神経のトラブルであることから私は、彼の尋常ではない天才性がもたらした”害”なのだろうか、とさえ考えました。

人類としては逸脱し過ぎた天才だったから、生物進化上の理由でなんらかの不調和が起こってしまったのだろうか、とも。”過ぎたるは及ばざるがごとし”という、私が普段あまり同意したくない諺までもが心に浮かんで来たりして。

しかしこの映画は、私の中で渦巻いていた、そういった問いの全てを、根本から覆してしまいました。

根本から覆した挙げ句、私自身が今後、どんなに理不尽と感じる出来事に遭遇したとしても、もはや決して、「何故!?」という疑問符での抗いを感じる事はないのではないか、という領域にまで、私を運んでくれたのです。

私は実はこの映画を観るまで、ホーキング博士の有名な理論については知っていても、彼の人柄に特別な関心を寄せたことはありませんでした。

ホーキング博士がどんな人物かも知らなければ、どんな風に彼が試練を乗り越えてきたのか、などについても、特に掘り下げようとしたことはありません。

だからこの映画の中で描かれている”スティーヴン”が、どこまで本物のホーキング博士に準じているのかもわかりません。

この映画では、彼の人としての人生が描かれています。

学者である一方で、夫であり父親であり恋人である彼。

青春の真っ盛りに、余命宣告を受けた若者。

サブ

過酷な運命の元、筋肉の動きを奪われ、言葉や体での感情表現が不自由になった時、彼の眼差しは様々な想いを映し出します。

そして私が見る限りその想いの多くは、新しい発見や境遇への好奇心や驚き、妻や子供、友人らへの愛や慈悲や友情、時に喜びや感謝でさえあり、苦悩やジェラシーや怒りや苛立に苛まれる様子は、ほとんどありません。

そのことに実は始め、違和感を覚えました。

実際のホーキング博士の人となりを知らない、ということも手伝い、戸惑いを感じました。

(『博士と彼女のセオリー』映画レビュー後編へ続く)

■『博士と彼女のセオリー』

■(c)UNIVERSAL PICTURES

■3月13日(金)TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

■配給/東宝東和