聖書の中で最初の人間。アダムとイヴの話
アダムとイヴはエデンの園で暮らしていました。
そこには何不自由なく快適な暮らしでしたが、神様から一つだけ約束ごとがありました。
「他のどんな実を食べてもいいけれど、そこにある知恵の実だけは食べてはいけません」
蛇がイヴに言いました。
「他の実よりさぞ美味しかろう。とって食べてみろ」
蛇にそそのかされたイヴは知恵の実を食べ、アダムにも知恵の実を食べさせました」
アダムとイヴはエデンを神様に怒られてエデンを追放されました。
知恵の実を食べた二人は自分たちが裸であることを恥じ服を着るようになり、善と悪を知るようになりました。
聖書の中で子供は罪なき者とされ、人は罪人です。
なぜ子供は罪を犯すことができないのでしょう?
子供は罪を罪という認識がないからです。
知恵をつけることによって人は罪を罪として罪人になります。
罪とは何でしょう? 聖書の中では、約束事を守っていた時点ではアダムもイヴも子供と同じ罪を犯すことができない存在です。
約束を破ることで、罪を知りバツを受けました。
約束事を守れば罪人にはならなかった。
いけないことをすることで人はそれを罪とします。
ですが、根源神でる神目線から見たときにすべてが許されている。
すべてが相対的であり、罪もバツもないのです。
悪いことをしたという罪悪感から人は罪をバツに変えて自分に与える存在となる。
根源神は、人にバツを与えているほど暇じゃない。
すべてがオールOKの根源神は罪もバツも与えることの自由を人に与えているだけです。
人によってこの罪の意識は差があります。
それは育った環境の中で何を罪にしているのか? という事です。
聖書で例をとるなら、神=母 アダム・イヴ=子供
母親のルールの中で罪という意識が刷り込まれていきます。
この母親ルールも全部があっているかどうかという事はなく、根源神から見たときに母親の好みだけです。
罪は罪を犯した人によってバツを自分に与えているだけ、それも多くは母親の好みのルールによってというなんだか理不尽な感じになっています。
罪悪感を感じるのは、それが罪だと思っている勘違いから起こるもの。
例えば
「本当はこうしたいんだけど、人に合わせなくては」
「一般的に考えたらこっちを選ばないと」
一般的、常識的、母親から刷り込まれたルールによって
これによって勝手に罪の意識で罪悪感を感じて自分でバツを与えとしてしまいますが、根源神から見たら、オールOK。
本当に罪なことなの?
何かを抑圧している?
自分の声に素直に聞いてみましょう。
罪を犯せるのは罪を知っている人だけ。
そして、その罪もその人のルールによって培われているのであれば、自分に該当するとは限らない。
罪悪感を勝手に感じていても周りは何とも思っていないかもしれない。
逆に自分は何とも思っていないのに周りは、悪人(罪人)とみているかもしれない。
罪悪感には自分に見合っていないものまでも罪の意識で行動に出ないようにしていることがあり、その抑圧から自分のプリンセス(女性性)意識ヒーロー(男性性)意識が発揮できない状況になっている場合があります。
罪悪感を感じたらそこを掘り起こすことで、プリンセス・ヒーロー意識が発揮されることによってその罪悪感の抑圧箱から金塊を掘り起こすことに繋がります。
罪悪感が出てきたら、抑圧埋蔵金を掘り起こす。
思っても見ない本当の自分に出会えるチャンスでもあります。
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