一宮千桃のスピリチュアル☆シネマレビューPART.114 「だれかの木琴」

小夜子の姿は滑稽だが、自らも滑稽であると、生きることは滑稽であると知らされる、佳作の出来。

平凡な主婦の心のゆらめき
自身の「満たされない」心を意識する

観終わった後の率直な感想は「不思議な映画」だった。
平凡な主婦の小夜子が、ふと、美容師に執着してしまう。そして、ストーカー行為をしてしまうのだが、一体この美人で感じのいい中年の主婦に何が起こったのか? あまりに自然で、当然? のようにも見えるストーカー行為。

小夜子は美容師のことを好きなのか? 何がしたいんだろう?
小夜子の心を探ろうとすると、はぐらかされる。
観るものにゆだねられた展開は、ゆらゆらとこちらの心を不安定にさせたまま終わる。

井上荒野の原作はどれも面白い。
本作の原作も、映画鑑賞後読んだのだが、そういうことか……と私なりの納得が得られた。そして、映画は女性の脚本家の方が良かったのでは? と思ったのだ。だって、小夜子の「満たされない想い」って、女性の方が強いのではないかと思ったから。

『だれかの木琴』サブ1s

 

時折聴こえてくる木琴の音
誰しも心の中に木琴に似たものがある?

小夜子は愛してくれる夫と最近色気づいた中学生の娘との三人家族。郊外の一軒家に越してきて、専業主婦で、経済的にも中流だ。
でも、時々今はもう誰も住んでいない、かつて住んでいた二階家から木琴の音を聴くことがある。そこには少女がいて、彼女が木琴を奏でているのだろうか? それとも、その少女は小夜子自身なのか? 木琴の音は小夜子の心のざわつきなのか?
小夜子の心象風景のような不気味でもあるシーンが心に残る。

『だれかの木琴』サブ2s

 

太宰治の小説で「トカトントン」という音が聞こえてくると、もう全てどうでもいいや、と無気力になる男の話がある。小夜子は木琴の音が聴こえてくると自分の心が分からなくなるのか、木琴自体、なんのメタファーなのか?
木琴、というのがすごくいい。文学的。さすが、井上荒野だ。この二階家の少女の場面は原作にはない。これは、監督・脚本の東陽一の手柄だろう。

 

私たちはすでに「満たされている」と気づく
それが「満たされる」一番の近道なのだ

さて、原作での一文を。
「怒鳴られようが、殴られようが止められないことがあるのだということをまだかんな(小夜子の娘)は知らないのだ」

『だれかの木琴』サブ3s

 

原作は夫婦の愛情と空虚の話である。怒鳴られようが、殴られようが、小夜子のストーカー行為は止められない。それは、やはりかつては満たされていたが、今は「満たされて」いないからなのだ。そして、愛も理解も十全に得て、与えることはない、と云っているように思えた。原作を読むと、映画のもやもやが解消される。でも、糸の切れた凧のような小夜子の不安定な姿は、映像ならではの緊迫感がある。

現代人は皆「満たされない想い」を抱えていると思う。そういう意味では皆不幸なのだろう。競争社会の資本主義の日本では、誰しも「満たされない」が前提にされているように思う。でも、すでに私たちは「満たされている」のだということに気づくべきである。なかなか洗脳は根強いので難しいかもしれないが。

私自身も「満たされていない」と日々思っていた。しかし、最近「満たされる」には、「すでに満たされています」と思わなければ一生「満たされない」と気づいた。それに、「すでに私たちは満たされていた」のだとも思い当たった。
そのことに小夜子は気づかず、またストーカー行為を繰り返すのだろう。
それは「哀れ」でもある。

小夜子の姿は滑稽だが、自らも滑稽であると、生きることは滑稽であると知らされる、佳作の出来。

『だれかの木琴』サブ4s

 

監督・脚本 東陽一
出演 常盤貴子 池松壮亮 佐津川愛美 勝村政信 蛍雪次朗 山田真歩
112分

9/10(土)、大阪ステーションシティシネマ、シネマート心斎橋、京都シネマ  他にて全国ロードショー!

©2016年『だれかの木琴』製作委員会

【配給】 キノフィルムズ

 

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