僧侶などが取り組む、厳しい修行の意味とは?~「修行は、苦しくなければ意味がない」というお坊様のお言葉と、ダライ・ラマ14世の思想から学ぶこと~

修行

私は毎朝早起きをしたり、粗食を続けたり、寒い中を薄着でシャキッとした姿勢で歩いたりと、厳しい生活をされているお坊様などを、大変尊敬しています。
なかなかできることではなく、人間の「怠けたい」「良い思いをしたい」という欲を克服されているということですし、地球にも大変優しい生き方である……と思うためです。

先日、ある不動尊で、見えない世界のお坊様に、そうした修行についての質問をしました。

一般人が、そのような修行的なことを行っても問題ないのか、何か効力があるのか……というような質問です。

色々と教えていただいたのですが、その中で強く印象に残ったのは、「修行は、苦しくなければ意味がない」というお言葉でした。

修行

私は、目から鱗が落ちる思いでした。何故なら苦しむために修行するのではなく、そうした修行は自分を鍛えながら、「苦しさを感じなくなるために行う」のだろうと、漠然と思っていたためです。
しかしそうではなく、やはり修行というものは、鍛錬された方が行っても苦しいものなのです。

 

ダライ・ラマ14世が説く、苦行の効用とは

わざわざ自分を苦しめることに、どのような意味があるのだろう……と思っていた時、偶然うちにあったある本を読み返し、そこに答えがあることを発見しました。

それも、パラッとめくった時に、そのことが書かれたページが出てきたのです。
本のタイトルは、「ダライ・ラマの仏教入門」(光文社・知恵の森文庫、2000)です。

「苦を甘んじて受ける」という小見出しの先には、自発的に苦を引き受けることによって、得られる物事について記載されていました。
それをざっくりとまとめると、以下のような内容です

●多くの小さな苦しみに耐えることを通し、前世で積んだ悪い業を浄化できる。
●苦しみに耐えるほど、悪い行いに対して強い嫌悪感を持つようになる。
●苦しい経験を通して、他人の痛みを推し量れるようになる。
●そのため、「苦しんでいる人を手助けしたい」という意欲が湧くようになる。

苦しい修行を通して、苦について考察をする機会が得られるということです。

例えば、飢えた経験のない人は飢えている人の苦しみを真に理解できず、それほど手助けをしたいとは思わないのではないでしょうか。

 

前向きに苦しい状況を乗り越えるために

先日、あるお寺の菩薩像様からも、「楽を求めると、堕落することになる」というメッセージをいただきました。

どうしても楽をしようとするのが人間ですが、安易な方向へ流されることは、人間の成長を妨げることになるのです。

修行

肉体という物質に閉じ込められて、この地球で生きていく上で、苦しみや悩みはそう簡単に絶えることはありません。

しかし、そうした苦しみから逃げるのではなく、自ら引き受けて体当たりする姿勢を持つことで、上記の苦行で得られる物事を、獲得できると考えられます。

そして、「この苦しみを乗り越えれば、前世での悪いカルマを消滅させることができる」と考えれば、苦しい状況を乗り越えることに対して、もっと前向きになれるのではないでしょうか。

 

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