娘の小葉は2歳7ヶ月。
トイレトレーニングは一喜一憂で進み、親の氣をもむ様子を横目に娘の小葉は自由に上手にしたり、失敗したりをくり返しています。
三歩進んで二歩下がる、といった感覚で、僕たちが予測する通りにはいきません。
ついつい、統制、管理したくなる親心がむくむくとわき上がってくるのですが、僕自身の感情的な課題なのだろうと考え直します。
娘に支持的になることの無意味さをトイレトレーニングにおいて学んでいます。
まるで僕の感情が成熟するためのトレーニングのようです。
娘にこうなって欲しいという期待。
こうあるべきだという強制。
こうなって欲しくないという心配。
ありのままに娘を観ているわけではなく、娘の言動に自分の感情を投影させてしまっているだけと静かな気持ちになった時は省みることができます。
時間に追われ、孤独な気持ちで子育てをしていたら、その余裕を僕は持てるか自信はありません。
僕たち大人はさまざまな人間関係の中で、この「感情の投影」を日常的に体験していると思います。
「なぜ、言われたことをやらないんだ?」
「わたしの言ったこと、聞いていた?言ったよね?」
「失敗するのが分かっているのに、どうしてするの?」
「無視しているの?それともバカにしているのか?」
人間関係で日々発生する「感情の投影」は、人生を複雑にして、自分の本意を隠してしまうと僕自身思います。
大人の人間関係だと、より複雑に感情の投影は行われ、それに対するやりとりも分かりづらいものになります。なぜなら、「無視された」「馬鹿にされた」「不当な扱いを受けた」「虐められた」などの被害者意識は正当な報復の理由を生み出すからです。