《当たるも八卦、当たらぬも八卦……易占は、解釈次第!?》こんな視点はいかがでしょう? MIKAKUの易占アドバイス(9月第2週)

「当たる・当たらない」よりも、「使う・使わない」という発想。 易占をお試しの際には、そのようにとらえてみることも、悪くないと思うのです。

大衍筮法による易占、4096の卦から得られる、先哲の英知。
取り入れてみると、ちょっと素敵な一週間になるかも?
易者MIKAKU(未畫齋)がお伝えします。

 

大昔の、名人のエピソード。

先々週に引き続き、易占の紹介を。

易占は、「卦を得る」ことと、「得た卦(と爻)を解釈する」ことから成り立っていると申し上げました。

この「解釈」が、曲者でして……。
極端なことを申し上げれば、「どうとでもなる」というところがあります。

ひとつ、エピソードを紹介いたします。

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中国・南北朝時代。
北斉(今の山東省あたり)という国に、趙輔和(ちょう・ほわ)という易の名人がいました。

友人の易者と、今で言うルームシェアをしていまして。
その友人のところに相談に来た客がありました。

「父の病気が心配です。占ってください。」と客が言い。
友人が占ったところ、「泰(地天泰)」という卦が得られました。

この「泰」という卦、上が「地」(大地、母親、不動……)で、下が「天」(天空、父親、活発……)という卦です。
「上から地が降りてきて、下から天が昇ろうとする。2つが交わるところに万物が生まれる」ということで、易を代表する盛運とされます。

「大吉です。お父さんはきっと治りますよ。」と、趙輔和の友人は客に告げました。

客が帰った後、趙輔和は言いました。
「何を言っているんだい。『地』の下に『父』が入るんだから(、埋葬ということで)、これは吉じゃないよ。」

趙輔和の見立てが当たっていたそうです。(『北斉書』方伎伝より。)

「泰」という卦が得られたところまでは一緒でも、その解釈は正反対。
易者の腕の見せどころ、へっぽこと名人を分けるのは、「解釈」だというわけであります。

なおひとつ、申し上げるべきこととして。
現代では、人の生死を占うことは禁じられています。
個人的に、私は病気や健康等に関わる占いをいたしません。

どうかご理解賜りたく、お願い申し上げます!

 

大昔の占いであるがゆえの、難しさも。

易は、3000年前からあるとも言われます。
正確なところは、永遠の謎なのかも知れませんが……ともかく大昔からあります。

したがいまして。
そこに記された「占いの言葉」は、どうしても、「大昔の、中国の」文化に基づいて書かれています。
農業社会や貴族政治家を意識している、というわけです。

その後も綿々と解釈は続けられました。
中国で、日本で。

それでも。
現代日本で扱う時の配慮というものは、どうしても必要になります。

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例えば。
昔の文化は、男尊女卑でした。これをそのまま現代に持ち込むべきではありませんよね。
あるいは……古くは「恋愛=好ましからざるもの」という文脈(文化的背景)がありました。
「結婚と言えば、お見合いすらせず、家が決めるもの。恋愛なんて、そうした家制度を危うくするものでしかない」というわけです。
(学術的に正確かどうか、自信はありませんが……。たぶん方向性としては、昔はそうだった「はず」。……だと思うような……。)

現代日本の占いとしては、死活問題です!
「恋愛を軽々しく考えない」ぐらいのスタンスは「あり」としても、「恋愛自体、よろしくない」という発想は、さすがに難しいかと思うのです。

そういうわけで。
私も含めて、現代の易者さん達は、解釈をいろいろに考えながら占いを立てています(たぶん)。

ですから、「どうとでもなる」……は、言い過ぎかもしれませんが。
占いを立ててみて、解釈を下す際には、相当な自由度が認められて然るべきではないかと。
占ってみたところ、なんだか大凶っぽい言葉が得られたとしても、「それを真正面から受け止めて、くじけるのは損」ではないかと。
私はそのように、考えております。

「当たる・当たらない」よりも、「使う・使わない」という発想。
易占をお試しの際には、そのようにとらえてみることも、悪くないと思うのです。

と、こんな視点はいかがでしょう?

 

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