未来への道筋は――、無数に枝分かれしている? それとも1つに収束していく?

未来への道筋

「私たちの未来は決まっているのか、それとも自由意思によって選べるのか?」――。これは、スピリチュアルの分野でとてもよく問われることですよね。

この問いに対してよく言われるのが――、「自由意思はあるけど、その選択は必然である」とか、「運命は定められているが、変更は可能だ」といった、まるで禅問答のような、どちらとも付かない回答です。

有名な『神との対話』(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)の本の中にも、こんな個所があります。
子供が外に遊びに出て行ったとき、親はその子が鬼ごっこをするか、隠れんぼうをするか、ままごとをするかなんてことを、いちいち気にかけないだろうと、神は説明します。それと同様に「神はあなたの行動には関心がない」と言い切ります。
「なぜなら、究極の結果は確実に決まっているから」だと…。

私たちの人生には、ありとあらゆる可能性の道が、無数に用意されているように見えます。そして、その中からどれを選んで生きていくかの「自由意志」も、私たちには与えられているはずでしょう。

「AかBか」という選択で、「A」の道を選んだら、その次に「CかDか」の選択が待っています。もう一方の「B」の道を選んだら、次は「EかFか」の選択があります。そして、そのうちの1つを選んだら今度は――。
といった具合に、選択の道は次から次にどんどん細かく無数に枝分かれしていき、それをどう選ぶかによって、行き着く先は全く違ってくるはずです。

なのに、こうした複雑多岐な未来への道筋があるにもかかわらず、「結果は確実に決まっている」というのは、一体どのような図式なのでしょうか…。

同じように、無数に枝分かれしていくように見えて、実際には全く逆に「小さく収束していく」というものの例として、こんなのがあります。

それは「自分の先祖の人数」です。
ごく簡単な算数だけど、ちょっと考えてみると不思議な感じがしてきますよ。まず自分の「両親」の数は、父親と母親の当然2人ですよね。その前の世代である自分の「祖父母」の数は、父かたの祖父母と、母かたの祖父母で、計4人です。そして、その前の世代の「曽祖父母」の数は、(祖父母4人にそれぞれ両親がいるわけだから)計8人となります。このあたりまでは、身近な実感として分かるでしょう。例外など絶対にあり得ないです(処女懐胎でもない限り)。

さらに計算していくと、その前の世代の「曽々祖父母」の人数は16人、その前の世代は32人、その前の世代は64人――。と、世代をさかのぼるほど、自分の先祖の人数が倍々にどんどん増えていきます。

そうして、10世代前の「曽々々々々々々々祖父母」になると、その人数は実に1024人にもなります。
10世代前というと、江戸時代後期くらいでしょうか。十数代も続く老舗が現存しているわけですから、決して古すぎる話ではないです。
その時代に、自分の血筋にあたる人が、驚くべきことに千人以上も実在したわけです。そのほとんどが、当時は住む場所も境遇もバラバラの、全く見ず知らずの関係でしょう。そこから以後の出会いの運命の結果として、今の自分がいると考えると、ものすごく感慨深いですよね。

――ところでこの計算、間違いようがないくらい単純だけれど、何だか少しおかしいと思いませんか? さらに先を続けていくと、すごいことになってしまうのです。

何しろ倍々で増えていくわけですから、27世代前(室町時代くらい)の自分の先祖の人数は、何と1億3000万人に上ります。これは、現在の日本の総人口よりも多い…。

そして33世代前(鎌倉時代くらい)になると、現在の世界人口をも上回る約85億人という計算になってしまうのです。
実際は絶対にそんなはずないでしょう。鎌倉時代の日本に85億人もいたわけがない。しかも自分の先祖だけで…。

一般的な家計図を見れば明らかなように、時代をさかのぼるほど、先祖の数は少なくなっていくのが筋です(そして究極的には、アダムとイブの1組に行きつく?…)
それなのに計算上では、実際とは全く逆に、過去の世代に行くほど次々に枝分かれして、人数が増えていくという図式になってしまうのです。

この「過去にさかのぼった先祖の人数」の図式を、現在を中心軸にぐるり180度反転させて、「未来の選択肢の数」に当てはめてみると――

計算上は、未来に進むほど選択肢は「無数に枝分かれしていく」はずです。
けれど本当は逆に、その数は(家系図をさかのぼるように)どんどん減っていって、最終的には「1つに収束していく」ということになります。

無数のように見える道が、ある意味で幻なのでしょう。それは「ネズミ講の詭弁」のようなものかも知れません…。

つまり私たちは、「1つに収束していくパラレル宇宙」を生きているとも言えます。
きっとそれは、外れてしまうことのない道――。私たちの本質へと必ず行き着く「恩寵の道」なのでしょう。