みちのく岩手 東日本大震災後の神社を訪ねて~その3~

津波に流された神社の苦悩と三陸から世界へ発信

ツアー2日目は盛岡八幡宮にて、「被災神社の復興をどのように考えるか?」というテーマで、おふたりからお話を伺いました。

まずは、津波で壊滅的な被害を受けた山田町出身の西舘勲岩手県神社庁長。
本務社である荒神社が津波で流されました。

「ちょうど3.11は盛岡にいたので、そのまま足止めをくっていた。3日後、やっと山田町の本務社に戻ると、本殿のほかは、何も残っていない。4基の鳥居も、3対の狛犬さえも、ない。あまりのショックで立ち上がることさえできずに、泣いていた。先祖代々受け継がれたお宮がこんなことになってと。気がつくと、誰かが立って傘を差しかけてくる。地元の若い新聞記者の女性だった。85歳になって、こんな経験ははじめてだった」

それでも、絶望にひたることなく、宮司としての役目を粛々と進めます。

「とにかく、氏子はみんな、神棚まで流された。心のより所も失ってしまった。そこで、神社庁から伊勢神宮のお札をもらって、仮設住宅に配ると、特にお年寄は涙を流して喜ばれるんだ。『これで神様と同じ部屋で生活できる』と」

生き残ったお年寄りの苦悩は深いものがあります。
「息子も孫も流された。こんな年寄りの私が生き残っていていいのか」と。

本殿以外何もない西舘宮司の神社に一人で来て、じっと拝んでは帰っていくお年寄りの姿が多いそうです。

そんな氏子のために、1日も早く神社を再建したいのですが、目処がたちません。政教分離の原則で、神社には復興支援金が使えないこと、資金のあてになるはずの氏子が仮設住宅暮らしで生活が厳しいからです。

「それでも、こっち(山田町)の人々は津波に対して恨み言がないのですよ。漁師気質でその日暮らしのせいなのか、これまで恵みを与えてくれた母なる海に対して感謝をしているからなのか、覚悟を決めている節があります」

そして、会場になっている盛岡八幡宮の藤原隆麿宮司からもお話を伺いました。

彼は被害の少ない内陸部の盛岡から沿岸部に、神社本庁との橋渡しになって支援を続けていました。

「人間というのは、目にするもので気分が決まっていくというのがわかった。毎日毎日瓦礫を見ているだけで、心が荒んでいく。イライラしたり、暴力的になったり。美しいものを見ていないと人間は人間じゃなくなる」

そして今回ほど、神社が日本人にとってどんなに大事な役目を果たしていたかがわかったといいます。娯楽、文化、伝統芸能・・・日本人の生活をすべて包括するものが神社にあったのです。

“神様はどうしてこの三陸の地を選んで地震と津波を起こしたのか?”

……悲惨な話を聞くたびに、だれもがそう嘆きたくなります。

しかし、震災の直後も、暴動や盗みもなく、秩序だって物を分け合い、耐えることができたのは、三陸の人々だったからこそ。力を合わせて復興し、世界にそれを示す必要があるからだ、といいます。

そしてそれは、その人々を支えてきた神社であり、日本神道のすばらしさを世界に再認識させるきっかけなのかもしれません。

~その4に続く~

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