毎日人生について考える
たぶん僕だけじゃないと思います。「生きるって何だろう?」ってほぼ毎日のように考えている人。これって、別に必ずしもネガティヴになっているってことじゃないですよ。
毎日が楽しい人っていうのは、人生とは何ぞやなんて考えないと思うかもしれません。でも、たぶん、お釈迦様も、王子として生まれて何不自由なく育ってきたと思うけど、人生について考えて、旅に出たと記憶しています。違ったらごめんなさい。
辛い日々が続いても、楽しい日々が続いても、きっと、どこかしらのタイミングで人生や生き方について考えると思うんですよね。大なり小なり。僕は、比較的、人の心について考えるのが好きだからというのもあって、その手のテーマについては頻繁に考えています。
僕の出した結論
結局、僕自身はココロセラピストなんて名乗ってるけど、万人のメンタルを、特定のメソッドで100%しあわせに導くということは、使命にしていないし、する気もありません。
僕の人生は僕の主観がなんだかんだで大きく影響しています。なので客観的に物事を俯瞰することはできないことだって正直多いです。
でも、人それぞれ、個性があって、違う考え方があって、違う世界観を持っていて、同質の存在なんてきっとなくて。マルチバースが存在しても、それが本当に同質かつ唯一の存在と言えるかどうかは僕にはわかりません。
でも、みんなが、毎日少しでも何かしら悩んだり、失敗したり、そういうことを繰り返しながら日々に折り合いをつけて成長しているということは、たぶん、ほぼ同じだと思うんですね。
そんな中で、僕やあなたが何に影響を受けるかわからないですが、自分の中での情報の咀嚼や吸収、それらをどう活かすかという習慣をつけたら、きっと、自分の人生の役に立つというか、何らかの糧となるんじゃないのかなって思ってるんです。
道徳って何だろう?
人生を考えるとルール的な何かを考えてしまうかもしれません。たとえば法律とか。特に日本は法治国家です。国際社会に生きる上でも共通の法の上で動いた方がわかりやすいかもしれません。
それはそれとして、同時に気になるのが道徳。小学校で、そういう授業があった気がするけど、実はあまり記憶がなくて。運動会の練習に充てられたり、別の何かをしていたりという記憶ばっかりで。僕がちゃんと、道徳の授業を受けてなかったのかな。どうなんだろう。
生きる上で、道徳心を持とうとは思うと思うんですね。でも、道徳って何なのかって、僕も含めて実は大人になってもよくわかっていない人って多いんじゃないかなと思います。少なくとも数値化されて評価される対象ではないと僕は思ってるけど……。
でも受験なんかで「ボランティアをやっていると有利」とかあるじゃないですか。それって、道徳的には「やってるから有利になるのは当然!」って言えるのかどうか。その辺が僕は知りたいです。というか、正解はないと思うんだけど、あなたがどう思っているのか知りたいです。
道徳って、人生の、ひとりひとりが守るべき行動の規範のようなものの総称的な意味合いですよね、きっと。特に、良いことをしようとか、悪いことはしないようにしようとか。
確かに受験科目だけ重点的に勉強すれば立派な大人になれるのかといわれると、そうとは言い切れないと僕は思っています。というより、勉強や数値化できるものだけで人間の価値が決められて良いはずがないとも思っています。もちろん、勉強でもスポーツでも高得点をはじき出せたら、カッコいいし、すごいけど、それはそれで個性の一部であって、その人自身の人間性や価値とはまた違ったベクトルなのかなと。
でね、僕なりに考えてみたんですよ。別に僕は自分を道徳の先生だとは思ってないので、「へぇ」くらいに読み飛ばして大丈夫ですからね。
僕の中で道徳を学ぶ上で特に大事なことは「命の尊さ」だと思います。日本人風にいうなら「kawaii」ってやつがわかりやすいかもしれません。
たとえば、草花を見て「かわいい~」って思えるって大事だと思うんですよ。「なんだ、ただの雑草じゃんか…」って寂しいでしょ。別に雑草一本見るたびに「この草も命があって一生懸命生きているんだな」なんて考えなくてもいいですが、アバウトであってもそういう感性って持ち続けて欲しいんですね。
昆虫とか小動物とか。この辺は好みもあるから「キモイ」って思うかもしれないですが、それはそれとして、自分が好きじゃないから排除すべき存在って、瞬時にジャッジするんじゃなくて、まず一呼吸おいて自分とは違う何かに対する尊重する気持ちって持っていてもらいたいんです。もちろん無生物も含めて。
そういうことって「思いやり」につながると思うんですね。そういうのが巡り巡って他者の視点というものの獲得につながると思うんです。
生まれた環境とか、性別とか、国籍とか、時代によって、自分とは明らかに異質に思える人って絶対に出会うじゃないですか。これからは、もっともっと、色々な種類(?)の人と出会うと思うんですね。
思いやりがあれば、生き物も、無生物も大事に扱いますよね。尊い存在として。人ってやっぱり、最終的にはそういう人が、多くの人に好かれて、尊敬されるんじゃないのかなって思うんです。
なんとなく、現代ってスピードが重視されているから、即断即決の美学みたいなものがあるのかもしれません。僕も極度にモタモタしてる人は正直好きではありません。
でも、だからと言って即断即決を習慣化しすぎて、すべてが自分基準でジャッジして「あいつは敵」とか「あいつは味方だったけど、今は敵」とか、「俺得なら、あいつがどうなってもいいや」とか、そういう発想になってしまうのは危険かなって思います。
数秒でも、一呼吸おいて「感じる」という作業を行う。冷静な気持ちになったら、物事がもっと多角的な視野で見られるようになるかもしれない。
そうすると、自分好みではない何かと接しなければならないときも、完璧ではなくても最善のアイディアが浮かぶかもしれません。
また「甘え」の駆け引きも上手になると思います。「甘え」って悪いイメージがありますが、実はそんなことなくて。甘えられる相手がいるからこそしあわせを感じられることってありませんか。
「甘ったれ」はよくないですが、甘えて良いことは堂々と甘えてしまう。これができるってことは信頼関係ができてるってことだと思うんですよね。
僕は、自分にはできないことが多いです。なので、仕事でもプライベートでも、結構、人様に甘えて生きています。おかげで精神的にかなり楽です。
でも、同時に「お互いがハッピーであれ」とも思うので、何か頼まれたわけじゃなくても、自分が先回りしてやっておいてあげることで物事が円滑に進むのであれば、しょうしょうめんどくさくても、だからといって損したとは思わずできますよね。世の中って、「お互い様」だと思うし。
お互い様っていうのは、お互いに思いやりの気持ちや言動をやりとりできる関係だと僕は思ってるんですよ。
僕が言っているのは理想論かもしれません。もしかしたら間違ってるかもしれません。でも、道徳を考えるとき、今お話ししたようなポイントが何かしら含まれているかどうかを考えて、自分の中にどう落とし込むかという作業を繰り返していくと、たぶん、もっと心が豊かになって行くんじゃないのかな、なんて思います。
今日は今日でやっぱり未熟だった。明日もきっと未熟だろう。でも、未熟なりにどこを見て生きるか。何を感じて、何を考えて、何を行動するか。その選択のひとつひとつを丁寧に行っていけば、きっと、まだまだ成長できる。
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