ココロセラピストが昔話の感想文を書いてみた!~舌切雀~

今は情報社会です。世の中にはあらゆる情報が秒単位で飛び交っています。とても複雑な時代です。 だからこそ思う事があります。僕たちは決して情報を安易に鵜呑みにしてはならないと。情報発信者の真意は何なのか考えた方が良いです。

むかしむかしを改めて読む!

童心をいつまでも大切にしよう。
誰もが思う事ですが、いざ大人というモノになってみるとあら不思議。知らず知らずに童心を忘れてしまうようです。もっともらしく聞こえるかもしれませんが、大人はこんな言い訳をします。
「忙しいから!」と。
しかし、大人もはじめはみんな子供だったのです。子供の頃に培ってきた経験が大人になる手助けをしているのです。

「忙しい」というのは漢字を見てもわかるように「心を亡くす」という意味です。だから「忙しい!」を連呼している人は童心どころの騒ぎでは無いのです。

心を病んでいる人の多くが子供の頃の消化不良した何かが原因だったりします。
「昔の事だから」と過去を軽視するのではなく、それこそインナーチャイルドと呼ばれる心の中の子供が喜ぶように童心と向き合い直すのも粋なはからいだと思います。

ストレスを解消することが大切、というとお酒を飲むとかタバコを吸うとか女子会に行くとか、イケメンの出ているトレンディドラマを観るとか、そういう事で癒されようとするかもしれません。
それも必ずしも悪くはありませんが、時間を作って過去の自分(記憶や認識)と対話するのも結構ストレス解消になりますよ。

無理に回想療法を受けなさいとか、そういうことではありません。
たとえば、そう。昔話を改めて読んでみて、今の自分の目線で解釈して過去の解釈と比較してみるなんてお勧めですよ。

というわけで、僕もさっそく昔話に触れてみます。あくまでも感想なので学術的な内容で考える必要はありません。

舌切雀

今回は『舌切雀』を題材に楽しんでみようと思います。

昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。
お爺さんは怪我をした雀を見つけ、家で世話をすることにしました。
お婆さんは、お爺さんが雀を可愛がる事を良く思いませんでした。

ある日、お婆さんが洗濯に出ている間に、
雀はノリ(障子糊と思われる)を全部食べてしまいました。
激怒したお婆さんは、なんと! すずめの舌を切ってしまったのです。
雀は逃げるように何処かに飛び去ってしまいました。

それを知ったお爺さんは慌てて雀を探しに出かけました。

子供の頃はお婆さんに対して「酷い事をするなぁ……」程度にしか思いませんでしたが、今となって考えてみるとかなり過激ですよね。動物の舌を切るという行為は何処かサイコパス的です。
もし現代にそのようなお婆さんが存在したら間違いなく危険人物扱いされると思います。当たり前のように語り継がれていますが、昔の人はその程度なら、猟奇的な扱いはされなかったのか、それともフィクションだからそれほど気にしなかったのでしょうか。
気になるところです。
細かい事を言えば、若かりし頃のお爺さん。何故そんな過激な女性と結婚したのでしょうか。
ものすごく美人だったのかもしれませんし、何も考えずに安易に「適齢期だから結婚するか……」というノリで結婚してしまったのか謎ですが、相手は選んだ方が良いです。
雀も可哀そうですが、お爺さんとお婆さんの関係が気になって仕方ありません。

とりあえず、ここまで物語は殆どの人が似たような記憶ではないかと思います。しかし、ここから先が人によっては記憶が違ってくるようです。

雀を探しに行ったお爺さんは、雀のお宿を見つけました。
雀はお爺さんを大歓迎し、最大限のおもてなしをしてくれました。

……と、僕は記憶していました。しかしヴァージョン違いでは、雀と再会する前にもう少しエピソードがあったようです。

お爺さんは一生懸命雀を探しますがなかなか見つかりません。
途中で馬飼いに出会いました。雀の行方を尋ねると
「馬の尿を飲んだら教えてやろう」と言いました。
お爺さんは、可愛い雀を見つけ出すためだと覚悟を決めて馬の尿を飲みました。
すると馬飼いは「雀はあっちへ行ったぞ」と教えてくれました。

でも、雀は見つかりません。
今度は道で牛飼いに出会いました。雀の行方を尋ねると
「牛の糞を食べたら教えてやろう」と言いました。
お爺さんは、可愛い雀を見つけ出すためだと覚悟を決めて牛の糞を食べました。
すると馬飼いは「雀はあっちへ行ったぞ」と教えてくれました。

気持ち悪すぎます。
でも、こういうヴァージョンもあるようなのです。尿とか糞の下りは別の汚物だった、他にも別の誰かと出会っている等、細かい違いは多々あるようです。

子供向けの物語にしてはグロテスク過ぎるので、時代とともに若干の修正はされているのかもしれません。それにしても原作者の本当の意図は何処にあるのでしょうか。もしかしたら、実はこのあまり知られていない箇所にこそ、真意が隠されているのかもしれません。

だとしても、お父さんやお母さん、あるいは学校の先生に「その時、お爺さんはどんな気持ちだったと思う?」と言われても正直なところ返答に困ってしまいますし「なんて質問をするんだ!」と一歩間違えば軽蔑されてしまうかもしれないのでタブーにされてしまったのかもしれません。
もしかしたら、この手の物語は安易に本音で語り合えない何かをじっくり考えるためにメタファーを通して語り継がれているのかな、という気もしないでもありません。

雀の居所を尋ねただけでサディスティックな要求をしてくる馬飼いや牛飼い。この存在がそもそも奇妙です。
お爺さんの居住地域には、お婆さんを含め陰湿な(?)人たちばかり住んでいたのでしょうか。

雀の行方も気になりますが、それよりも、お爺さんを取り巻く人間たちの方が気になって来ますね。お爺さんはお爺さんで、「そんな酷い事を言うなら、教えてくれなくて構わない。自分で探す!」と言わず、相手の要求を素直に飲んでしまうところが奇妙でもあります。

雀を心配するあまり、あれこれ考えるより行動あるのみと思ったのかもしれません。しかし、はたしてそれを人は愛とか勇気と本当に呼べるのだろうか。お爺さんは親しい仲間はいなかったのだろうか。
考えれば考えるほど奥が深いテーマです。

僕は物語のおもしろさは空白部分にこそあるのではないかと思っています。

僕が小説家なら敢えて語らない箇所をところどころに散りばめることで、その空白部分を読者の想像力に委ねたいと思うと思います。
その際、脱線し過ぎて作者の意図がまったく伝わらないで完結してしまったり、屈解されてしまったりしても困りますが、それはそれで想像力のトレーニングにもなるので、あながち悪くもない気がします。
要点は要点としてしっかり抑えて、他の個所は自由に楽しめたら良いと思います。

お爺さんが帰ろうとすると、雀はお土産にと2つのつづらを出しました。
「大きなつづら、小さなつづら。どちらか1つ選んで持って帰って下さい」

お爺さんは、自分は年寄りだからと小さなつづらを貰うと言いました。
家に帰って小さなつづらを開けてみると金銀財宝が入っていました。
その一連の話を聞いたお婆さんは欲を出し、さっそく雀のお宿へ向かいました。
お婆さんは、「早くお土産に大きなつづらをよこせ」と言いました。
雀は言われるがままに大きなつづらをお婆さんに渡しました。
お婆さんは帰宅途中に待ち切れず大きなつづらを開けてしまいました。
すると、中からなんと! 魑魅魍魎が現れて追いかけて来たのです。
お婆さんは命からがら逃げ切りました。
「もう、下らない欲を出すのは止めるよ……」と言って悔い改めましたとさ。

物語はここで終わりです。ちなみに、ラストはいくつかヴァージョン違いがあるようです。お婆さんは魑魅魍魎に殺されて終わり。ビックリして気絶して終わり、等々です。
願わくば悔い改めて終わってくれたらありがたいです。

ここの感想ですが、子供のころは「雀に酷い仕打ちをしたり、欲張りすぎたりしたから当然の報いだ!」とか「やっぱり日頃の行いが大事だよね!」くらいにしか思いませんでした。おそらく僕に限らず、多くの子供たちはそのような感想を抱いたのではないでしょうか。

もちろん、それも立派な解釈だと思います。おそらくそのような教訓も込めた物語だと思います。ただ、何と言うのでしょう。どこか後味の悪さが残っているのです。
では、後味の悪さを暴くために違った視点で見てみましょう。

お爺さんは良い人です。雀もお爺さんが大好きですし、感謝もしています。わざわざ探し出してくれて嬉しいのでおもてなしもしました。

では、なぜ雀はお爺さんを試すかのように大きなつづらと小さなつづらを選択させたのでしょうか。

海外の童話『金の斧・銀の斧』も似たような話です。妖精が出て来て「あなたの落したのは金の斧ですか?それとも銀の斧ですか?」と選択肢を与えています。主人公が「私が落したのは普通の鉄の斧です」と答えると「あなたは正直者なので、金の斧も銀の斧もあげましょう」と言う展開になります。

この話と『舌切雀』は似ていますが決定的な違いがあります。『金の~』の場合、主人公は単に斧を落としてしまっただけで彼の人間性は未知数です。そう考えると妖精が彼の人間性を試そうとするのもわからなくもありません。

一方『舌切雀』はどうでしょうか。お爺さんは人格者だという事を雀は身をもって知っているのです。しかも、お世話してくれたり探し出してくれたりしたお礼にお土産をくれているはずなのに、今さらここでお爺さんを試すというのは一体何を意味しているのでしょうか。

考えすぎかもしれませんが、どうも僕たちが子供のころに抱いた感想はそう思うように誘導されている気がしてなりません。「欲を出してはいけないよ」という教訓(思想?)に、です。

お婆さんだけを見ていたら、強欲過ぎて意地汚いので反省の余地は大いにあると思います。確かにもっと謙虚になるべきです。

一方、お爺さんは意地悪ではありません。ただお婆さんの件をわざわざエピソードに盛り込んでいることから考えると、楽しいサプライズとしての選択ではないと思われます。

万一、お爺さんが大きなつづらを選んでいたら、それ故に今までの徳(善良な行いをしてきた経験)は全て無効化されてしまうのでしょうか。
魑魅魍魎に追いかけまわされてしまうという結末になってしまったら、何とも酷いと思いませんか。そもそも選んで良いというから選んでいるわけで、大きなつづらを選んだら強欲だから悪と決め付けられてしまうのはどうかと思うのです。
その辺に誘導めいた何かを感じるのです。

……という話を某セラピストに話したところ、「お爺さんは、どっちの箱を選んでも良い物が入っていたかもしれない。逆にお婆さんはどっちを選んでも本当は悪い物が入っていたかもしれない」という可能性を教えてくれました。つまり、選択肢は大きいつづらを選んだから欲張りとかそういう話では無くて純粋にエンターテイメント性を演出したかっただけかもしれません。お婆さんのケースは雀の舌を切ったり、呼んでないのに押しかけて来たり、宝目的で来ているからしっぺ返しされただけと考えれば、納得いく気もします。

そして、これはファンタジー作品として捉えられていると思うので気にならないかもしれませんが、もう1点気になる事があります。

舌を切られた雀、普通に考えたら死にますよね。
食べ物を食べられないわけですから。そして、普通の雀が話の中盤以降から人語を話し、人間が入れるサイズのお宿に住んでいるのです。そもそも、そんな高度な知能や文化があるなら前半のストーリー展開は一体何だったのだという事になります。
しかも魑魅魍魎(悪霊?)を封じ込めた箱まで持っているなんて不気味ではありませんか。
お察しの通り舌切雀が居るお宿こそ“あの世”なのかもしれません。

昔話を振り返って……

こんな具合に、『舌切雀』だけでも、こんなに色々な感想が出てきました。小さな頃の自分と話せたら、今の解釈をどう思うかぜひ聞いてみたいものです。
理屈っぽいと思われるかもしれませんね。

今は情報社会です。世の中にはあらゆる情報が秒単位で飛び交っています。とても複雑な時代です。
だからこそ思う事があります。僕たちは決して情報を安易に鵜呑みにしてはならないと。情報発信者の真意は何なのか考えた方が良いです。
『舌切雀』の例でわかるように、短い物語の中にも様々な解釈や疑問が浮かんで来ます。こんな時代だからこそ、間違った情報や誘導めいた情報に流されてしまうのではなく、物事の本質を捉える事が大事なのです。
「忙しい」からと話し半分で生きていると、危険度が増します。より情報を有意義に駆使するためにも、日頃から活字を読んできちんと消化する習慣を身につけて欲しいと願う今日この頃です。