2016年は、あちこちのテレビで真田信繁(幸村)の特集をやっていますよね。
以前『感情美人への道Vol.22 人のレッテルを外して本質を見る』でもちょっと触れましたが、真田一族は心理学からみても面白い要素がたくさんあります。
今回は、大河ドラマの主人公にもなっている信繁の不思議についてです。
戦国の英雄と謳われる信繁ですが、実は実戦経験が驚くほど少ないのをご存知ですか?
大阪冬の陣・夏の陣の前は、たった「2回」しか戦に出た経験がありません。
徳川家に仕えていた本田忠勝なんて、実に57回も出陣していますから「2回」というのがいかに少ないか分かるかと思います。
信繁が参加したのは小田原征伐と、第一次上田合戦。これだけ。
では、なぜたった「2回」の実戦経験で『日本一の兵(つわもの)』と呼ばれるようになったのでしょう?
真田信繁が生まれたのは1567年とも1571年とも言われています。
元々真田家は長野県上田市あたりの一豪族に過ぎませんでしたが、信繁の父・昌幸が武田信玄の足軽大将になってから大出世します。
この昌幸の息子に生まれたのが、運命の分かれ道。
信繁に比べるとちょっと地味な印象の昌幸ですが、昌幸がいなければ信繁の功績はなかったと言ってよいでしょう。
信繁がたった2回の実戦経験で英雄になれた理由。
それは父・昌幸を完全に自分の中のロールモデルとして確立していたからです。
実戦経験は少ないものの、信繁は父・昌幸が采配した戦国史に残る名勝負を、間近で見る機会に恵まれたのです。
徳川家と敵対した第一次上田合戦(1585)。
この時の勢力は、徳川7000に対して真田2000。兵力差実に2.5倍です。
ここで昌幸は、下準備として城下町に千鳥掛けになっている柵を設け、侵入は簡単だけれど退却が難しい経路を作り上げます。更に近くを流れる神川をせき止め、いつでも氾濫させられるようにしておきました。
次にわずか200騎で徳川軍を自身がこもる城におびきよせます。
数が少ないと踏んだ徳川軍はそのまま追撃しますが、そこで真田軍が一斉砲撃を始めたのです。
千鳥掛けの柵で退却ができず、更に川から溢れ帰った水で退路を経たれた徳川軍は1300騎を失い、敗走します。
この戦いっぷりを見た戦歴57回の本田忠勝(徳川軍)が、「ぜひうちの娘と縁組みしてくれ」と言い出して、昌幸の長男(信繁の兄)・信之を娘婿に迎えています。
だから、関ヶ原の戦いでは兄・信之だけ徳川軍。
父・昌幸と主人公の信繁は石田三成について別れて戦うことになったのですね。
ここでも昌幸は、自分の長男が徳川軍についたことを伏せて、三成から西軍勝利の際の破格の高待遇を引き出すことに成功しています。
さらに、徳川秀忠が関ヶ原に向かう途中で信繁が守る砥石城を攻めた時、秀忠はその戦法を兄の信之に命じています。
あやうく兄弟で戦闘となる所でしたが、昌幸は既にそれを予知。
「信之が攻めてきたら、信繁は迷わず退却せよ」という命令を出しておいたので、兄の信之は無傷で砥石城を手に入れました。
もう万々歳で気が緩んだ秀忠。そこを真田軍の伏兵が襲ってきて、大混乱に陥ります(ここは秀忠の黒歴史として語られていますよね……)。
こういった天才的采配をふるった父を、信繁はいつも間近で見ていたのです。
他にも「甲州スッパ」「大かまり」と呼ばれていた諜報部隊の活用や、大阪冬の陣で家康を散々苦しめた「真田丸」という出城。
この出城の肝が「丸馬出し」という防御と攻撃システムなのですが、これも元を辿れば武田築城術のひとつです。
つまり、信繁は実戦経験こそ少ないものの、父・昌幸というロールモデルを確立していたことが、英雄と呼ばれる最も大きな理由になったと考えられます。
信繁が大阪冬の陣・夏の陣の総大将だったら、家康が負けていた可能性もなきにしもあらずです。
なぜなら冬の陣では、家康の心理戦でパニックに陥った秀頼の母・淀の暴走で講和し、夏の陣では焦った毛利軍が突っ走ってしまったので、信繁の作戦が日の目を見ることがなかったからです。
「父上だったら、この時どう動くか」というのを常に問いかけていた信繁。
ちょうど今ドラマもやっていますから、昌幸のどんな面が信繁に引き継がれるのかぜひ注意して見てみてください。
良いロールモデルを持つことは、それほど自分の人生の質を左右するのです。