【その出来事の根っこはどこに】
猫がお風呂に落ちました。
といっても残り湯を抜いている途中のお風呂なので、猫がおぼれてしまうわけではないのですが、問題なのはそのタイミング。
「今日は1ミリも暇な時間がない!」という時に限って落ちるのです。
「あ~、そろそろ猫たちのシャンプーしようかな」と思いつつ忙しさにかまけてそれをやらずにいると、彼らは百発百中でお風呂に落ちます。結局そのタイミングで、シャンプーをすることになるのです。
「うける(笑)」
ブッダの声が聞こえた。
「みぽ、思った瞬間に実行していれば、猫がお風呂に落ちるという下りは必要なくなる」
おっしゃる通りです。
【正業(しょうごう)とは】
苦しみから解放されるためのワークである八正道(はっしょうどう)のうちのひとつに正業(しょうごう)があります。
ここでいう業(ごう)とは、カルマのこと。
正業とは、正しい行い・行為のことで、正しいカルマを積みましょうということです。
カルマには、自分のご先祖さまたちが積んできた先祖由来のものや、国や世界といった集合無意識由来のものがあり、これらを突然に変容させたり解消させたりするのはなかなか難しいものです。
であるがゆえに、多くの人たちが心の鍛錬を積み、今この瞬間にも祈りを捧げ続けているのです。
一方、自分個人の今生でのカルマは、その生き方ひとつでいいものも悪いものも自分の選択で積むことも解消することもできます。
【四正勤(ししょうごん)の実践】
「四正勤(ししょうごん)を心がければよいのですよ」とブッダは言います。
四正勤とは、自己の精神の修練として、
*すでに生じた悪を除こうと勤めること。
*悪を生じないよう勤めること。
*善を生ずるように勤めること。
*すでに生じた善を増すように勤めること。
ほんと、わかりやすい。ブッダ、天才。
ブッダに言わせると「自己の精神の修練として」ってところが大切だそうです。
【誰がバチを与えているのか】
「バチが当たる」という言葉の意味を、深く考えたことがありますか?
「そんなことしたらバチが当たる」とか「バチが当たったからそんな目にあったんだ」とか、信心の浅い深いに関わらず、大人たちが当たり前のように口にしていた言葉だったと思います。
実際、私も「バチを与えているのは神様か仏様だ」と、うっかり信じて生きてきました。
刷り込みって怖い。
このバチ=罰は、神様や仏様といったおおいなる力を持った存在が、自分自身の悪行に対して目を覚まさせるようにと与えるものだという解釈をしていたのです。
全体的にそういう思考形態で、この世の中は「業=カルマ=罪悪感を積まないようにする」ことを心がけさせようとします。
しかしながらこれ、人間の作った嘘の物語でした。
ブッダは、「苦の始まりは無明から」という絶対真理を悟りました。
十二因縁と呼ばれるものです。
であるならば、私たちのこの苦しみが、天罰やバチが原因であるはずがありません。
天罰やバチが存在するという論理は、それ自体が破綻しているのです。
しかしながらそうすると「じゃあ一体、誰がこの天罰やバチのようなものを当てているのだろう? という疑問がわいてくるわけです。
【すべての始まりは自分】
「バチ、当ててるのは、自分」byブッダ
うっそ~⁉︎ 自分なわけないじゃん、自分、しあわせになりたいし。しあわせになりたくてがんばってるんだし。
と思ったあなた。
すぐ正定(しょうじょう)。
で、すぐ正見(しょうけん)。
自分自身の中に生まれてしまう罪悪感が原因で、私たちはたいへん無自覚に、自分自身が痛むような出来事を引き起こし自己攻撃をしています。
バチは、自分自身が自分に当てているということ。
例えば、
自分の本心とは裏腹に、人にいい顔をしてしまった。
その人が悪いわけじゃないのに八つ当たりをしてしまった。
約束したのに、実行できなかった。
目標を設定したけれど、達成できなかった。
といった具合に、人は、実に簡単に罪悪感を抱いてしまうような行動をしてしまいます。
そしてその罪悪感を自分では処理できないので、他人からの攻撃や起きてほしくない出来事や自己卑下などの方法で攻撃し続けるのです。
やめよ~。ほんと、やめよ~。
ブッダの得た真理は、今ある罪悪感を解消できるよう努力し、今後罪悪感を抱くような行いをしないよう心がけ、自分自身をしあわせな状態にして、その状態を常としていくよう生きれば、自然と人は苦しみから解放されるのだというものです。
そのために、八正道の実践があるのです。
【瞬間の選択】
猫の風呂落ちの件ですが、
猫シャンプーをしようと思う→しない→罪悪感(カルマ)を無自覚にためる→自分にとっては最悪のタイミングで猫が風呂落ちする→猫シャンプー実行
罪悪感による自己攻撃にはまっている自分はそれを最悪のタイミングと受け取ったりするのですが、実はそれが、これ以上引き延ばしをしたらほんとにひどいことになるギリギリ最後のタイミングだったりするわけです。
すると決めた瞬間に実行していれば、無駄な罪悪感を持たずに済んだのに、それを延ばし延ばしにいていたからこういうことになる。
ただそれだけのことなのです。
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