本気な菌活シリーズ3〜続・日和見菌の「無害」の「無」について

日和見菌は無害、と断定してしまうのか、日和見菌は今はとりあえず無害に見える、とするのか、これは結構な違いが出るのではないかと思います。

前回、日和見菌の「無害」の「無」について書かせて頂きましたが、引き続き掘り下げて見ていきたいと思います。

◎無能な人など存在しない

仕事場でサボっている人が、休日は実は音楽を作っていてその音楽が実に素晴らしい、とか、裁縫が凄く上手、だとか。
人は必ず何か能力というモノがあるはずです。

人間でも動物でも菌でも、あらゆる「存在」というのは「無ではない」から存在しています。
文字にするまでもなく、当たり前すぎる事ですが。
存在している時点で常にして「有」です。

そういう観点から見ますと「能力が無い」という「無い状態」というのがこの世には有り得ない、というのがお分かりいただけると思います。
さらに観ていきますと、「能力が無い」と判断するのは先ず誰か? という問題があります。

 

◎無能だと判断する人は誰か?

いきなり自分で自分の事を「私は無能だ」という人は本当はいません。
私には6歳と3歳の息子がおりますけど、彼らは自分の事を「無能」とは決して言いません。
大人の方が遥かに出来る事が多く、有能であるのに、彼らは自分らの事を自分で「無能」とは言いません。

3歳の息子はまだ流暢に喋る事が出来ませんが、それでも「僕は喋る事が出来ない無能だ」とは一切言いません。
「無能」とは、先ず自分以外の人がそれを判断する事、から始まります。
「キミは無能だね」と他人から言われ、次に自分と他人とを比べて「自分は無能である」と判断するのです。
そして無能だと判断する原因というのは、それは常にして「環境」が伴っています。

ですから「キミは無能だ」を丁寧な言い方をすれば「君はこの世に存在しているから当然何らかの能力があるのだけれども、この今の仕事場という環境においては能力が無いように見えるね」です。

もう一度簡素に書くなら、「無能」とは「この瞬間は、とりあえず無能に見えるよね」です。
存在自体が「無能である」と断言する事は誰にも出来ません。

 

◎日和見菌は本当に無害なのだろうか

さて、この観点から日和見菌の「無害」を見てみれば。
「この瞬間、とりあえず日和見菌は無害に見えるよね」です。

ですから、日和見菌は無害と断定する事が出来ずに、僕らの認識からすれば、「今この瞬間は害がないように見える」だけです。
存在自体が無害である、と断定する事は出来ません。

とするならば、日和見菌は最初から人体に善にも悪にもなる能力がある、と見る方が妥当です。
何か結局一周周って、だから日和見菌は無害だよ、と言っているように聞こえるかもしれませんが、日和見菌は無害、と断定してしまうのか、日和見菌は今はとりあえず無害に見える、とするのか、これは結構な違いが出るのではないかと思います。

重要な事は、これらが常に移り変わってどうとでもなっていく、という事で、これは糠床でも同じです。
糠床も、昨日美味しかったのに今日は何か違うぞ、というのは良くあります。

この常に変わっていく変化、この世に無能はない、というのが菌を見る上で重要な要素になりますが、当然このまま人間社会に応用できます。
そうした時に、今見えている世界が一変するかもしれませんね。

 

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