娘、小葉(このは)の成長は僕たち両親の癒しや心を育ててくれます。自分が蓋をしていた感情や忘れていたはずの思いを甦らせてくれます。すでに通りすぎたことを今、目の前に見せてくれるという素敵な役割も彼女は担っています。本当にありがたいと思うと同時に過去に引っ張られる鬱陶しさも感じてしまう僕でした。
小葉が生まれてから自分たち家族がいかに穏やかに豊かに暮らすかに意識が集中していきました。それまでの世の中に対して何ができるか?といった貢献を探す気持ちや周りにどう思われているのだろうと自分たちの差別化された個性を表現することに意識がいっていたこともありました。要するに周りにどう見られているか、格好をつけていたわけです。この意識は意外に根深いものがあります。
自己顕示欲や虚栄心はするりと僕の心に忍び込んでは僕を衝動のように突き動かしました。いつの間にかそうした意識もほぼ自分の時間という概念のなくなった日々に駆逐されていきました。「子育てって大変ね。」という世の中の定型文はピッタリとあてはまりました。
それは子育てする人たちにとってはステレオタイプの言葉だと感じます。実際にその通りですし、その言葉に間違いはないと思います。
世の中にはそういった言葉があります。
その言葉がどういう意図を持っているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
そういった視点が世の中の定型文を紐解く大切な視点になると思います。小葉が生まれて間もなく、こういう言葉が僕たちのもとにやって来ました。
「2人目は?」
他意はなく、世の中の定型文をいつの間にかその人が言わされているだけだと思いますが、僕たちの感情はざわざわしました。僕が昔、離婚を経験した時も世の中の定型文は発動し続けました。
「二度目の結婚はあるの?」
「もっといい人いるよ。」
「星の数だけ女はいるから。」
離婚というショックから立ち直っていなかった僕には傷つく言葉でした。その言葉をどういう意図で使っているのか、僕自身が反応するのは何故か?などという視点はなく、限りなく被害者意識で定型文を受け取り続けました。相手を加害者にして、さらに被害者意識に陥るという負のスパイラルでした。
離婚のことを思い出すことが少なくなり、寛子との結婚生活が落ち着きを見せ始めた頃も同じく定型文を耳にするのでした。
「赤ちゃんは?」
「ふたりだと寂しくない?」
「孫の顔を見せてあげなよ。」
「ふたりとも若くないんだから。」
「赤ちゃん作らない主義?」
「子育ては大変だけど自分の子供は可愛いよ。」
などなど、多くの定型文が発せられました。
定型文が発せられることは何も悪くないと感じます。しかし、そこに発する人の本当の気持ちを感じられるセンスは必要です。被害者になろうとする自分もいるでしょう。相手を加害者にしたくなる自分もいるでしょう。傷つく自分もいるし、正当な怒りだと矢を放ちたくなるかもしれません。
定型文はいつ作られたんでしょうか?その定型文をその人はどういう意図で使っているのでしょうか?
十数年前、僕は人生最安値で寛子と結婚しました。貯金はなく、定収入はなく、生命保険は解約し、資産価値0ということでしょうか。その頃の僕の未来への希望はそのまま未来から借金のような気持ちでした。未来に期待することで今の自分を見ないで済むという感じです。
彼女の職歴や高給取りぶりは、僕の高校生のような時給をはるかに凌いでいました。彼女が研修講師をしていた頃、新人研修の4月、僕は自宅で主夫業を担当していました。僕自身の心の中にやって来る定型文は、
「主婦業は三食昼寝つき。」
「楽で良いよね。」
「社会に出て働かなくても良いんだから。」
(実際はAQUA MIXTとして活動もしていましたし、アルバイトもしていましたが…。)
…などでした。
もう、これは誰かに言われたということではなく、僕自身が自分を責めているだけでした。世の中にある定型文に汚染されている僕という構図です。
その言葉がどういう意図を持っているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
これらは僕たちを自由にする問いです。
ひょっとしたら、以下のようなこともあるかもしれません。
・やっかみや嫉妬
・相手をいかに効果的に傷つけるか
・落ち込んでいるので誰かを傷つけたい
・相手より優位に立ちたい
・自分のストレスを相手にぶつけるため
・本当は分かって欲しいという言葉が上手に変換できない
そして、自分自身がその定型文に傷つくとしたら…?
・劣等感を癒していない
・自分も自分自身を裁いている
・差別する気持ちが自分にもあることを認めていない
・過去の癒されていない感情があることに気づいていない
・今の自分を受け容れていない
・相手を加害者にすることで問題の本質から逃れている
・被害者であるほうが人生は楽だと深いところで思っている
などがあるかもしれません。
傷つくということは何かしらの自己の投影を相手にしているということですから。
相手の問題と自分の問題をきちんと切り分けて考える必要がありそうです。
その言葉がどういう意図を持っているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
この問いをいろいろなシーンで使ってみるのもいいかもしれません。