ダライ・ラマ法王が語る、やさしい心とは? 第2回ダライ・ラマ法王東京講演

 

法王のお説法の第2回目。前回、法王は精神性の大切さを語ってらっしゃいましたが、その続きをお伝えします。

<※一部割愛している部分があります。ご了承ください。>

 

「医学的、物質的に満たされていても、精神的に満たされないと感じる人たちは、欠けた部分を求めるようになりました。物質的なもの以外に人間的な価値があるのではないか、と気がつき始めたのです。またある人たちは宗教に関心がなくても、やはりこの人生に人間として生まれてきた以上、人生に一体どのような意味があるのか考えるようになった人もいます。

過去2、3世紀の間に私達にはさまざまな変化がありました。そしてひとつの体験を通して次の精神的なレベルにいき、また次のレベルへと移行していくのではないでしょうか。私達はそんな倫理的な危機のある時代に生きているのです。今日、私達人間の生活がどうなったかというと、以前に比べてますます忙しくなって、未知なるものに目が行かない時代になっているのではないでしょうか。

テレビの普及によって私達の目は外のもの、外見的なものに囚われているのではありませんか。両親はますます忙しくなって、子ども達と過ごす時間が異常に少なくなっているのではないでしょうか。つまり近代社会は非常に忙しい時代になっています。自分の周りのことは自分でなんとかして、他人の助けなど必要ないという考え方になっています。自分自身の小さい殻に入ってしまって、自分のことだけをなんとかしていけばいい、という考え方も出てきたような気がします。しかし、そのような考え方は十分ではないのです。

 

私達は未知なるものに目を向けて、自分以外の大きな社会とか、大きなものに注意を払わなくてはいけない時代が来ているように思います。すべての宗教に対する尊敬をもった上で、宗教を区別しない、そういったすべての宗教に共通したその土台の部分で、共通して強調されている部分を持ったモラルという意味で、私達は世俗的な倫理感をとらえているのではないでしょうか。一人ひとりが持っている個人の尊敬の念を忘れないようにすることが、倫理感の土台ではないでしょうか。単なる宗教を信心している人の土台だけでなく、全く信心していない人も共通して当てはまる、より広いパースを持った考え方になっているのではないでしょうか。

同じ世俗の倫理感というものを土台にして、すべての愛や慈悲を、あるいは許し、あるいはすべての者は兄弟姉妹であるという考え、こういった私達人間の持つべき価値観の必要性を同じように説いているわけです。個人個人がすべての人を愛さなければならないということを説いているのです。そこのことに全くなんの変わりもないわけです。ですから一人の人間として、存在していく上での必要とされる価値観、つまり人間が持つべき良き特質といわれる部分においては、すべての倫理感を統括した

すべての土台となるようなものの考え方として捉えていけばいいと思います。

基本的にはすべての宗教は同じことを説いていると、いえるのではないでしょうか。これが私の思う倫理感であり、ひとつの言葉でまとめるならば、『他の人たちに対する思いやり』ではないでしょうか」

やさしい心の持ち方について核心に迫ってきました。お説法も次回でついに完結です。次回は会場で行われた、法王への質問コーナーも少しご紹介します。お楽しみに!

 

 

 

 

 

 

(2006年11月10日両国国技館にて・撮影/浦田ケイ子)