【愛と平和、若者たちが集まるアムステルダム旅行記】

戦後70年という節目にこのアムステルダムを訪れることで、戦争がどれほど悲惨なものであったかを認識するためだったのでしょうか……。

いつか訪れたい都市の1つでしたが、なかなか機会に恵まれることがありませんでした。

2015年にアムステルダムを訪れることになったのも必然的だったような気がします。

パフォスからアムステルダムに直行便が出ているのですが、主人の路上フォトグラフィックスのワークショップに合わせて行くことになったので、ラルナカまで車を走らせ2時間、ラルナカから出発したのだが、その後、アムステルダムからの観光客をパフォスで降ろし、パフォスより再出発というややこしい路線になってしまった。

アムステルダムから来ているオランダ人たちの服装を見てみると、皆さん、冬服を着ているので、天気予報では日中は27度、夜は14度ぐらいだったので、暑いパフォスで冬物は10月下旬ぐらいまでは使用しないので、ワードローブには夏物ばかりで、レザージャケットを持って行くかどうか考えたが、それほど寒くないだろうと思い、置いて行った。

予定時刻になっても出発せず、遅れながら現地に着き、ホテルまでタクシーを利用した。

ホテルに着いたのは、早朝3時過ぎ、サンダルで夏服だったので、寒かった。

静かな部屋を希望して、すぐに眠った。

体内時計が目覚めたようだったので、時間を見てみると、キプロス時間7時過ぎ頃だった。

現地時間早朝6時にお腹が空いたので、出かける準備をして、フロントに行った。

ホテルのスタッフの人から笑顔で挨拶をして来たので、「コーヒーショップに行きたい。」と尋ねると、「お客様、コーヒーショップを朝からお探しですか?」と返答された。

「朝ごはんを外で食べたいので……。」と言い直すと、「アムステルダムで、コーヒーショップと聞くと、マリファナはどこですか? と、聞かれていると勘違いしますよ?」と言われたが、主人と私は意味不明だったので、苦笑いした。

多分、朝からの冗談だったと思います。

その後、100メートル歩くと、直ぐに街中? だけど、誰もいないほど閑散としていた。

朝ごはんを2人で食べたが、30ユーロ。

パフォスだと、ジュース+他の飲物がついて、1人6ユーロで食べられるので、物価が高いと確信した。

この日は主人が、半日時間があったので、ブラブラと歩き周りました。

午後10時ぐらいまで明るいが、体内時計はもう眠たくなっていたが、主人がホテルに帰って来たのは、24時頃だった。

アメリカ系韓国人の27歳のエリックさんと言う方が路上写真の撮り方のワークショップを行うために、ヨーロッパに来ている。

他の国でも開催されている予定だったが、アムステルダムを選びました。

主人のワークショップの話を聞いていたので、体内時計は午前2時過ぎ頃になり、やっと寝ることが出来ました。

カズコ2
※右側の上の写真はアンネ・フランクの家に入館するために待っている人たち

2日目は【アンネ・フランクの家】に行くことにしました。

朝10時からオープンと聞いていたので、9時30分ぐらいに行けば、どれぐらい待つのか、2時間は待つだろうと思い、運河側の方から行くと、長蛇の列でした。

列の最後に並びましたが、その後、凄い人数の人たちが同じような意識で待っていました。

行くときはそれほど寒くなったのですが、立っていると小雨が降り始めたりして、夏服だったので、寒かったです。

戦後70年という節目にこのアムステルダムを訪れることで、戦争がどれほど悲惨なものであったかを認識するためだったのでしょうか……。

子供頃から、広島県民の私にとっては、戦争とは名前を変えたテロと同じだと思っていました。

戦争でないときに人を殺したときは、人殺しとして罪を償わないといけません。

しかし、戦争中は、子供であれ、誰であれ、敵対国の人々を、蟻を踏み潰すように簡単に尊い命を奪ってしまっても罪に問われません。

アンネ・フランクも尊い命をユダヤ人だということで、強制収容所で命を奪われてしまいました。

アンネ・フランクは1929年6月12日にドイツのフランクフルトで生まれ、1933年にヒトラーが政権を取り、反ユダヤの体制を作り上げました。
ユダヤ系であったフランク一家はオランダに移住しました。
17世紀から1940年までに、多くのユダヤ人がオランダに移住しています。
それはダイヤモンドを磨く技術がユダヤ人にあったためだそうです。
アンネの父オットーは2つの会社を始めました。
しかし、1940年5月にドイツ軍はオランダを占領し、それからのオランダでも反ユダヤ政策が行われるようになりました。
1942年7月6日にフランク一家は身を隠すことにしました。
私が訪れたアンネ・フランクの家は4階建ての家でした。
一階が倉庫で作業員たちが昼間は働いていたため、アンネたちはトイレに行くこともカーテンを開けることも出来なかったようです。
急な階段を上り、動く本棚のある踊場でドアを隠し、息を潜めて生活をしていたようです。
食糧の調達はオットーフランクの従業員のミープ・ヒースさんが買い集めて、持って行っていたそうです。
その彼女も戦争が長引くに連れて、8人分の食料の手に入れることも困難になっていったそうです。
協力者の1人のクーフレルさんは責任の重さで、口が聞けなくなったそうです。
2年間に渡る隠家での生活は1944年8月4日、密告者によって、秘密警察はアンネ・フランクが住んでいた家に強制捜索がやって来たことにより、逮捕され、アンネは強制収容所でチフスにかかり、1945年3月に亡くなりました。
16歳の誕生日を迎えることなく、この世を去ってしまいました。
アンネ・フランクの日記の一説に「このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかきっと、私たちが単なるユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです!」1944年4月11日

1時間ほど狭いアンネ・フランクの家を後して、運河沿いを歩いたりしました。

その後、肩こりが酷かったので、ホテルに帰ってサウナとマッサージをして貰うかと思いましたが、歩いていると中国系のマッサージハウスがあったので、マッサージをして貰いました。

やっぱり、中国人は上手いですね。

その後、木の下で涼んでいると、主人から電話がありました。

夜の10時ぐらいまでは帰って来ないと思っていたのですが、「早めに終わったので、他の皆は昨夜と同じようなところで食事するらしいけど、今回はパスして帰って来た。」との事で、「丁度、あなたが電話をして来たときに、ランチしたので、ディナーかな?」という事で、一旦、ホテルの前の噴水で待ち合わせにした。

いつものごとく、写真を撮っている様子……。

部屋に帰り、荷物を置いて、夜は日本食レストランが良いと言うので、予約を入れた。

日本語で連絡したが、日本語が通用せず?

行って見ると、中国系の日本食レストランだった。

有名な日本のホテルがある場所は、歩いて行ける範囲ではなかったので、アンネ・フランクの家の近くということで、またまた、アンネ・フランクの家で長蛇の列になっている人を見ながら、レストランに到着。

味は普通でしたが、値段が高くて驚いた。

これだけ高いと隣の席の現地人女性たちが少なく食べているのを見て、納得できた。

カズコ3

アムステルダムには200か国以上の人々が暮らしていると聞いて納得した。

人種差別もなさそうだし、人が親切で驚いた。

特にオランダ人男性は優しい人が多かった。

女性もとても綺麗でスタイルが良い人を見かけた。

重たそうな自転車を誰もが乗っていたのが印象的だった。

他の国だと、ヘルメット着用しないと怒られそうだけど、オランダは日本と同じでママチャリ感覚で乗っていた。

猫もケージに入れられて自転車で運ばれていたが、大人しくしていた。

時期的なものなのだろうか?

兎に角、若い人たちで溢れていた。

若い観光客の人たちが至る所にいた。

自転車、トラム、バス、車、バイク、人、あらゆるところから車よりも自転車が信号無視して通り過ぎて行く。

治安が悪いかと思いきや、結構、安全なイメージを持った。

運河の通る橋でキスをすると、永遠の愛を誓うことができるらしいという都市伝説? なのか、キスするカップルが多かったことも印象的だった。

公用語が英語なのか、完璧に英語を話せる人が多かったので、道を聞いても迷うこともなかった。

1人で食事をしても、押しやられることなく、自由に席を選べて、差別がない国だと実感できた。

3日目はゴッホ博物館に行くことにした。

雨がパラパラと降っていたが、傘を借りると荷物になるので、そのまま歩いて行ったが道に迷った。

ホテルから歩いて直ぐだった様子だが、目印を教会にして行ったので、通り過ぎてしまった。

引き返して早歩きで、博物館まで行った。

今日も2時間ほど待つかな?と思っていたが、到着して直ぐに入れた。

ゆっくりと、じっくりと1つ1つ、見ることが出来た。

印象派のゴッホの作品は日本の浮世絵のイメージを取り入れたぐらいから、とても明るく、南仏のイメージは心を癒してくれるので好きだ。

2時間ほどゆっくり見て、外に出ると長蛇の列で傘をさしている人もいた。

風も強く、雨がパラパラ降っていたが、帰りは道に迷うことなく直ぐにホテルに帰れた。

遅いランチをメキシコ料理店で食べた。

主人はワークショップも最後なので、遅く帰ると言っていたが、5時ぐらいに電話があり、早く帰って来るという事だった。

あまりにもメキシコ料理がヘビーだったが、ワッフルを食べていなかったので、食べたいと思い食べることにしたが、一口食べるともうお腹一杯になるぐらい重たかった。

今年の1月にローマに行ったときには、ほぼ病院にいた思い出ばかりなので、あれこれ食べたい、飲みたいという感じで、食べていたら、2キロ太ってしまった。

寒い日が多かったので、甘い香りのワッフルやチーズコロッケみたいなのが食べたくなって食べた。

胆嚢を摘出したとは思えないほど、普通に濃厚な物も食べているし、ワインも飲んだりしている。

ビールも大きなジョキで飲めて、最高でした!

旅の最後は雨がパラパラと降っていましたが、傘をさすほどではなかったが、ホテルのフロントで傘を借りた。

ホテルのレセプションのスタッフはとても気遣いのある対応でびっくりした。

ロンドン辺りだと、5つ星に泊まって、ベットメイクをしてくれてなかったので、フロントに連絡したら、嫌な感じのタイプの男性が来て「自分たちでしろ! 立ってないで、手伝いなさい!」と言われて驚いたことがある。

地理感覚がなかったので、兎に角、町に近い場所を選んだが、値段は高かったが何も不自由なく、快適な時間をホテルでも過ごすことができた。

住んでも良いかな? と思えるほど快適だった。

特に、ここパフォスが暑いときに、避暑地としてアパートを借りたりしても良いと思えるほど居心地が良さそうだった。

猫も連れていけるアパートであれば、最高に良いかも知れない。

今回のアムステルダムの旅はちょっと短い感じもしたが、愛と若者のエネルギーを感じることが出来き、また、偏見や差別のない人々が共存している都市でもあり、「愛と平和~LOVE&PEACE」というイメージを感じることが出来た貴重のひと時だった。

ヒッピーも多く、本当に自由で自分らしく生きられるような都市だからこそ、多くの人種がアムステルダムに移住しているのだと思った。

ありがとうございます。

カズコさま

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