第四段 先代の四宮(藤壺)入内
帝は、年月を経ても桐壷のことを思われ、忘れることなどいっときもありませんでした。
「せめて慰めよう」と、しかるべき人々を参らせたまいましたが、「桐壺になぞらえて思える人さえ見つからぬ、難しい世の中である」と、何かにつけて疎ましくお思いになっていました。
そのころ、先帝の四宮がすぐれたご容貌で、母后がこの上なく大切にお世話されているという高い評判がありました。
帝に仕える典侍は、先帝にも仕えていて、四宮にも参って慣れ親しんでおられました。幼少のころより四宮を知っていて、ご成長されてもほんの少し拝見しておられました。
典侍は、「亡き桐壷のご要望に似た人を、参内にわたり帝にお仕えしたこの私でも見つけることができませんでした。
しかし、先代の后の宮の姫宮こそ、とてもよく似たご様子で成長なさっています。
世にもめずらしく、美しきご容貌であられます」と、帝に奏上しました。
「それはまことか」と、お心にとまり、帝は、四宮の入内をご希望され、母后に伝えたまいました。
母后は、「あぁ、恐ろしいこと。東宮の母の弘徽殿はとても意地が悪く、いやなもてなしで桐壷が亡くなった例も、不吉ですし」との思いを込め、いさぎよく四宮の入内を決心なさいませんでした。
そのうち母后は、亡くなってしまわれました。
四宮が、母君を亡くして心細げにしておられたので、「女御ではなく、ただ私の皇女と同じように思っていると、伝えるように」と、とても丁寧に伝えさせたまいました。
四宮に仕える人々や後見人たち、兄である兵部卿の親王などは、「このようにひどく心細くおわすよりは、内裏に住まわせたもうたほうが、お心も慰められよう」などお思いになり、ついに四宮の参内をお決めになりました。
参内後、四宮は、藤壺とお呼ばれになりました。
まことに、そのご容貌は、不思議なほど亡き桐壺に似ておられました。
このお方は、他の方々よりも極めて身分が高いため、嫉妬がないのは喜ばしいことでした。
人々はとても貶めることはできず、藤壺の身分に納得し、何の不満も持ちませんでした。
桐壷にかんしては、周囲の承知がなく、帝のご寵愛が原因で周囲から憎まれ、亡き人となられました。
しかし、次第に、帝のお心は、桐壺への思いを紛らわすというでもなく、自然に藤壺に移ってゆきました。
桐壺をこの上なく弔っていらっしゃったのに、人の心の移ろいとは、まことに、感慨深い業でございます。
(画像出典:Wikipedia)