娘の小葉は2歳5ヶ月。
トイレトレーニングをしながら、そのトレーニングは親育ちのイベントのように感じている今日この頃です。僕自身は自分がおもらししたことは忘れて、排泄は当たり前のようにトイレでするものという感覚を持っています。
僕がパートナーの寛子と喧嘩をした際によく出てくる言い回しに、「自分のお尻は自分で拭きなよ!」というものも、きっとおもらししたことをうっかり忘れてしまったからでしょう。
この表現に僕の価値観や観念、過去の経験が投影されています。
◆自分のことは自分でするべきである。
◆後始末をきちんとしなさい。
◆汚すことなく、綺麗にしておくべきである。
◆手を抜かずに全力を尽くすべきである。
などなど、僕の価値観です。
僕がどう育ってきたか?を表現する価値観です。
それは時に僕の可能性を狭めるだけではなく、僕の周りにいる人たちの可能性も狭めてしまいます。
子育てに向かい合う際に、親自身の問題を子どものテーマにしてしまうことのないように自分を見つけていきたいと感じています。どうして、その価値観や観念を自分のものにしたのか?ということですね。
トイレトレーニングを娘の小葉を家族で取り組んでいますが、その「取り組む」という僕の姿勢も暑苦しいものなのかもしれないと思うようになりました。
彼女は自分のタイミングを心得ています。
ただ、親が心配で手を出し、コントロールをしてしまいがちなだけです。
こちらがあまり手を出したり、促さなくても自分の身体のリズムを彼女は試していたり、そのために、あえて挑戦したり、失敗したりと試行錯誤をくり返しているだけでした。
「おしっこ出ない!」と言い張る彼女が台所でおもらしすると、嘘つかれたような気がして苛つき「おしっこ出たじゃない!」と怒るパパとママ。
就寝時やお出かけする時にパンツ履きたいという彼女の思いを軽く見て、紙おむつのほうが良いと諭すパパとママ。
「おしっこは?」と訊いてくるパパとママの言葉に必要以上に反応し、「出ないから!」と怒り出す娘。
わざわざ娘にプレッシャーをかけて、ハードルを高くして跳べなくし、失敗を反省させ、逆境に立ち向かう精神でも僕たちは育てたいのか?と自分たちにツッコミを入れたくなるような日々でした。
それは親である僕たちが「否定したくない価値観」があったからでした。
その価値観が正しいとまでは言えないけど、それを否定することは自分の生きてきた道のりを否定するような気がして、そのままにしておいたものです。
決して自己否定にはつながらないのですが、新しい価値観を選択することは怖かったのだと今では思います。
「遊び心とプレッシャーのない空間を創り出すこと」
このあたりが娘とのトイレトレーニングを進ませるものだったようです。
それはこれからも何かにつけて親が試される機会として目の前に現れると感じています。
◆排泄をすることが楽しいこと
◆トイレが温かく、快適な空間であること
◆親自身がしてもしなくてもどっちでもいいと思えること
◆親自身がこうすべきだという価値観を癒すこと
◆子どもの「自分で育つ力」を信頼すること
◆親自身の「自分で育つ力」を信頼すること
娘を見ていると、まるで、僕のインナーチャイルドが肉体を持ち、この世に現れたという気持ちになることがあります。血がつながっているという感覚は時に面倒で煩わしく思えます。
しかし、同時に自分の人生をさらに豊かに、日常の奇跡を感じる感覚を磨いてくれることも否めません。
娘の小葉が自由に選択できる環境作りに必要なものとは、親である僕たちが「わたしはこうして生きてきた。」「僕はこういう人間だ。」「こうすべきである。」という価値観や観念、レッテルなどに囚われず、僕たちが自由に何でも選択して試してみることだったのだと気づきました。
そういった道程を親である僕たちに踏ませるために、娘の小葉は現れてきてくれたわけで、そのことに感謝することもせずに、彼女の力を過小評価し、コントロールをしていた自分を振り返ります。
この学びは幾つもの階層があり、幾度も向かい合う場面があるだろうと思いますが、自分を癒すためにも、この機会のもたらす恩恵を受け取っていきたいです。
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エンジェル・セラピスト®夫婦のスピリチュアル子育てPART.74~おむつは外すもの?外れるもの?トイレトレーニング(潤治編)