娘の小葉も2歳2ヶ月、意思表示に言葉を多用するようになりました。
助詞の使い方も気を付けているようで、コミュニケーションの楽しさを味わっているようです。
僕との会話も伝わっているのかどうか? に重点を置いて話します。
ですので、こちらも聴いているという姿勢が大切で、いい加減な対応だと正すように話しかけてきます。
このところ、パパとふたりで遊びに行くという機会も少しずつ増え、パパといる状況を娘の小葉も楽しんでくれているようです。
インドアの僕が外出しようと決心できるのは娘のおかげです。
普段は平日に遊びに行くので、あまり気にしていませんでしたが、土日祝日に子どもが遊べるような施設に行くことも増え、あることに気づきました。
それは「パパの育メンアピール合戦」です。
先日、水遊びができるような施設に行き、小葉と水遊びをしていました。
そこには数人のパパがいて、子供たちがいました。
ママたちなら、水遊びの危険性も、子どもたちのいきすぎた行動も、伝えたり、教えたり、たしなめたりするのでしょうが、パパさんたちは違いました。
いかに子どもの要求に応え、「こんなことまで出来るんですアピール」をしているかのようでした。
街中の至る処に、パパの育メンアピールはそういう偏見を持ってよくよく観ていると気づくことがあります。
水遊びで子どもと一緒に必要以上にはしゃぐ
男親だからできるというアクロバティックなことを遊戯施設で行う
しつけをしっかりしているという厳しめな言葉を公共の場で大きめな声で言う
子どもを連れて歩きながら、周りの目を気にして注意散漫になる
上滑りな使命感を持って、子どもと接している
などなど、いろいろなシーンでその「育メンアピール」は見て取れるかもしれません。
土日祝日の施設や公園での遊びが、いつの間にか「育メンアピール」の場のように感じてしまうアホなパパを横目に、娘の小葉はマイペースで遊んでいます。
育メンアピールが気になる僕の心理状態は、
「僕はあなたにとって良いパパだろうか?」という不安です。
世の中には、たくさんの良いパパがいます。
情報雑誌でも、綺麗に着飾り、仕事も家事も育児もしっかりとして、パートナーを大切にし、家族を守るような「育メン像」を見ることがあります。
海では、浅黒く日に焼けたパパの腕に抱えられた娘とともに波打ち際に行き、砂遊びや子ども用の浮き輪、ビーチボールで海と戯れる。
週末はママ友、パパ友たちが我が家に集まり、腕を振るったパパの料理を庭のテーブルデッキまで運ぶのをお手伝いする娘は満足げ。昼間はノンアルコールねと一同で乾杯。
どのひとつとして僕は当てはまりません。
アウトドアに置いて、蚊と煙と汗のコラボレーションは何より嫌いであり、釣りはしません。海も日焼けやまとわりつく砂が気になります。海に入るまでの用意で意気消沈します。自宅でランチ会をできるほどの料理への情熱がありません。後片付けを考えると憂鬱になります。洋服にもあまり興味はありません。寝癖のまま外出することもあります。
……とメディアが仕掛ける育メン像に僕はなにひとつ当てはまりません。
周りのパパを見て、すべてのパパが「育メンアピール」をしていると感じてしまうのは、僕の自信の無さや不安が投影されているだけです。
僕が僕自身をジャッジ(判定)してしまっているのです。
そのジャッジができるとしたら、それは、誰でもない娘の小葉であるのにも関わらず、僕は勝手に一人芝居をして、自信喪失していたのでした。
そんな時に、勇気を出して小葉に訊ねてみました。
「僕はあまりアウトドアでもないし、ビックなダディもないよ。
ワンボックスカーに乗って、遠出もしない。
日常にイベント性も無いし、サプライズも与えられないと思う。
そのようなパパでも良いですか?」
すると、小葉は、「パパが良い。」と答えてくれました。
「パパで良い。」ではなく…、
しっかりと「イイ、パパがイイ。」と目を見て伝えてくれました。
その助詞の使い方にこだわりがあったと思いたいパパなのでした。
「パパでもイイ。」だったら、この「育メンアピール」の世界から抜け出せなかったかもしれません。