松田有真のミラクルHappy☆Life宮古島~宮古島の昔の人々の暮らしとお水を、もう一度PART.3~

古き良き時代の水と人々の暮らし

~前回の続き~
時代が経過すると、井戸も次第に工夫が施されてきました。

 

井戸利用による島の水生活も次第に工夫がなされるようになり、大正の頃になると手繰りから滑車に代わり、井戸口にはコンクリートの柱が建てられ、滑車が付けられました。その事によって、水汲みを行う女子たちの労力は随分軽減され、時間の空費も幾分緩和されたそうです。

夕方になると、子供や男の人達が井戸の周りに雑踏しました

学校から帰った子供たちや、野良仕事から帰った夫が主婦の手伝いをするために水汲みに出かけ井戸の周りに集まったそうです。夕暮れが迫る頃、滑車の順番を待っていられない手繰で頑張る元気な子供たちの縄がもつれます。現代の交通ラッシュを思わせるような古き時代の一コマです。

 

部落に近い「自然壕」も活発に利用されました。汲み上げた水を天秤棒で担ぎ運ぶ人たち。兄弟仲良く担ぐものがあるそうです。

 

大正13年、市内に偉大な機動力を持つ巨大な水車が完成しました。輪の直径は5メートルもあったという大きな水車です。その仕組みとしては、水車の輪の中に人間が立って歩くように踏んで回転させるとその動力で連なった木製の容器(容量は3ℓ程)が巡回して、水を汲みあげるというものだそうです。 この水車の設置は当時としては大事業で、人々はその偉容を見る為に、全島から集まったそうです。

 

こちらは、手押揚水ポンプで水を汲む主婦の姿。しかし、手押しポンプは井戸が深いところでは利用できないということで宮古島ではあまり普及しなかったそうです。

 

ついに宮古島に水道が!

井戸口に手押しポンプとモーターポンプが取り付けられていて時代の移り変わりを表しています。時は過ぎ、1952年3月27日。宮古島についに上水道工事が着工されました。

こちらは自ら進んで奉仕作業に従事する島の人々の姿。その姿は逞しいものでした

上水道工事の際には、学校の児童生徒も出来る限りの協力をしたそうです

砂利の収集、石の運搬、など作業は多岐に渡ります……

 

 

マスタープラン発表と同時に、全島に伸びる上水道工事は1964年5月から65年12月まで急ピッチで進められました。近代水道としての陣容をますます強化したそうです。

上水道創設当時、市民の奉仕で進められた工事は機械力を有する請負業者によって市民には少しの負担も掛けずに進められていく「労働奉仕」という尊い官民協力の風潮があったそうです。しかし、その姿は現在ではもう見る事は出来なくなっているようです。

 

水道整備が整い「白川田水源」の水が市内に溢れ出した瞬間です。「白川田水源」の水は現在も宮古島の主な上水道の水源地となっている場所です。

 

市内の要所には共用ガランが設置されました。こうして、豊かな水の普及に島の人達の生活は大きく変化してきました。と、同時に人々の生活の基盤である「台所」も同様、時代の変遷と共に大きく変化していくことになったのです……。