日本ふしぎ発見<序章>~地球と人類の再生のために見直そう、日本の不思議文化の旅

不思議なことが好き

はじめに……。
「不思議があるから、人生は楽しい。神秘は、神秘があると思う人のもとにしか訪れない」
これからこの連載では、日本の不思議文化をいろいろと探ってみたいと考えていますが、まず、私がなぜ不思議なことが好きなのかを考えてみました。

私は、子どもの頃、不思議系の物語、いわゆるファンタジーが好きでした。『ドリトル先生』を読んで動物と話をしたり、『メリー・ポピンズ』を読んで空を飛んだり魔法を使ったり、『ナルニア国物語』を読んで洋服ダンスの中から別世界へ行ってしまったり、など物語の主人公とともにいろいろな冒険をしたものです。不思議なことができると思うと、本当にできるように思えてくるから不思議です。

そういう不思議大好きの子ども時代を送った後、今度は現実的あるいは理屈っぽい青少年時代へと変転しました。その原因の一つは、2代続いた父の会社の窮状と廃業、それにともなう様々な試練という、ひたひたと日常生活に迫る厳しい現実にさらされたことによるものでした。もう一つの原因は、当時の文学や学術の世界が物質主義や合理主義に毒されていることでした。近現代の日本文学の世界では、リアリズムと私小説が幅を利かせていました。

そのため、ファンタジーなどは、子どもだけが読むような現実離れした幼稚な嗜好であり、いずれ卒業しなければならないものという位置づけです。現実は楽しくはなく厳しく、また綺麗ごとではなくドロドロした醜いものなので、文学はそういう厳しい、あるいはドロドロした醜い現実に目をそらすのではなく、しっかり見つめて描き、夢のような世界は卒業しなければならないというのです。一方、学術好きの友人も現実的、あるいは論理的思考を好み、論理で説明できないようなものは学問ではない、実証できないようなものは学問ではないと言い、人に流されやすい私も、そのように思うようになりました。

しかし、やがて時を経て、現実を見つめることを説く文学系の人々も論理的でなければならぬと説く学術的な人々も、利己的な言動や我を張る言動を正当化するために現実的、あるいは論理的を主張している傾向があることに気がつきました。やがて、自分もふくめてこういう性向は、決して立派ではなく尊敬できないと思うようになりました。

純粋に社会改革を訴えている人々に、共感し敬意を感じていた時期もありました。しかし、こうした方たちの中にも、私利私欲はなくとも、我が強かったり理屈っぽかったりする方もいて、どこか自然態とかけ離れている感を持ちました。
と言っても、文学や学術や社会改革に救いを求めていた時期は結構長期にわたりましたし、文学や学術や社会改革に打ち込んでいる方のすべてが、我が強かったり理屈っぽかったりするわけではありませんでしたが、やはり自分の居場所とは異なるような、落ち着きの悪さを感じていました。

神秘的なものは存在する

やがて、ニューエイジ・サイエンスがブームのピークに達すると、この思想にはすごくひかれるところがありました。ケストラーの右脳思考(直観脳は、現在では脳幹ではないかと言われますので、直観脳思考ぐらいで良いかと思われます。)、カプラの般若心経と量子論の相似、ワトソンのハチのテレパシー、コリン・ウィルソンのオカルト思想、どれもそれまでの欧米の思想から見ると神秘的で東洋的なものでした。そして、これらを経て、逆輸入的に東洋の英知である仏教や神道、易経や道教、ヨーガや気功、鍼灸や整体にも関心を持つようになり、私の神秘主義への関心も復活してきました。

現実は厳しく醜いと思うと、生きることはつまらなくなりますが、この世界に神秘的なものは存在するのだ、不思議なことはあるのだと思うと、人生は輝きだすように思えてきたのです。
神秘は神秘を否定する人には決して訪れません。人間の認識・理屈には限界があり、認識できないもの・理屈にならないものがあり得ると考える人にのみ、神秘や不思議は訪れるのです。