近所の人に道で出逢って、自分から挨拶を言い、
世辞のひとつでも言い、会話を楽しむ……。
世辞とは、「おべっかや媚びる言葉」 ではなく、挨拶の後に相手に伝える相手のご機嫌を伺う言葉だそうです。
「江戸しぐさ」 の中で語られるもので、それは、江戸時代の商人道、生活哲学のようなものです。
ちょっとした心遣いのエッセンスが心地良く、できるだけ自分の習慣にするようにしています。
道で会ったご近所の人と挨拶の後に続く言葉。
「こんにちは、今日は寒いですねぇ」
「おはようございます、雨があがって良かったですねぇ」
「ずいぶん、暖かくなってきましたねぇ」
今のセラピーサロンの場所に引っ越してきて、ご近所の方々の世辞の多さに驚きました。
近所のおばさまたちは、挨拶の後に必ず世辞を付けてきます。
その自然な感じが心地良くて、そうなれたらいいなぁ……と思って自分がやり出すと、恥ずかしさや気後れで、照れてしまって思うようにいきません。
何気なく世辞を伝えることが難しいことに気づきます。
知るは易し、行うは難し……。
相手が怪訝な顔をしたらどうしよう?
逆に迷惑なのでは?
変な人だと思われたらどうしよう?
迷惑だとしたら、しないほうがいいのでは?
挨拶を交わす瞬間……
時間がとてもゆっくりとスローモーションのように流れていきます。
その間にいろいろな心の葛藤があります。
思考は臆病な僕が保身のために必死です。
もう完全にベクトルが自分向きなんですね。
自分のことばかり考えています。
人のことをあたかも考えているように思考は言い訳を探しますが、自分が傷つくのが怖いだけです。
その怖さを克服するために、
この世界がいかに僕を歓迎しているかを知るために、
転んでも痛くない世界を自ら創り出すために、
ほんの少しの勇気を持って、
自分からコミュニケーションを発信することが、世界をとても安全なものだと感じるひとつの方法だと僕自身は感じています。
それを「世界を耕す」と僕は呼んでいます。
転んでも痛くない地面だったら、思う存分、走り回ったり、バク転も試すかもしれません。
地面がアスファルトだったら、バク転なんてやめておけ……と言われるでしょうし、そう思うのが当然です。
朝起きると自分に問いかけます。
「世界を耕すために、今日、僕は何ができるだろう?」
保身することに思考を使い、どんどん怖がりになるのなら、ちょっと勇氣を出して、ベクトル自分向きを変えられるかを試しています。
僕が世辞を言った後のご近所の人たちの笑顔や嬉しそうな顔に助けられて、続けようと思えるのです。
世の中は思っているほど、硬い地面ではないことが、耕し続けて思うようになりました。
何気ない主体的な態度が、人生を変えていくかもしれませんね。
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