ココロセラピストが語る!? 頑張らない話~「頑張りすぎ」と「怠けすぎ」は自滅する~

頑張らない

新年度が始まると疲れませんか?

新年度が始まると疲れませんか。僕はどちらかといえば疲れるタイプだ。あなたはどうだろうか。人間って単純だなって思う。年度末は一年の締めくくりだと、有終の美を飾るためか心身ボロボロになりながらもひたすら頑張ったりしていないだろうか。僕もそのタイプだ。年度末に気合を入れて頑張れば新年度が快適にスタートできる。考えてみれば誰がそんなことを言い出したのだろうか。

もちろん、言いたいことはわかる。特に僕はそうなのだが、辛いこと、嫌なこと、キツイこと、大変なことは、ためておきたくない。どこかでリセットして仕切り直ししたい。そんなふうに考えるタイプだ。なんとか乗り切ると、なんとなく清々しい気持ちになる。

新年度になると、新しい何かがはじまりそうな期待値が高まるのか、一瞬だけ清々しい気持ちになる。そして、最初が肝心と、ここでまたひたすら頑張ってしまう。新年度は環境が変化しやすいため、やや神経過敏になっているかもしれない。その環境の変化が良い変化につながると信じているから、頑張ってしまうのかもしれない。

プレ五月病。

せっかく頑張っているのに、何故、年度末に頑張りすぎたり、新年度に頑張りすぎたり、という話をしているのかというと、五月病の話をしようと思ったからだ。五月病になると、憂鬱になる。元気がなくなってしまうのだ。なんとなく僕たちは、それを毎年恒例の「そういう時期」だと思い込んでいるかもしれない。確かに、そういう時期といえなくはない。

だが、冷静になって考えてみると、年度末に有終の美を目指して頑張りすぎて、新年度に、良い波に乗るために頑張りすぎて、なんだかんだで全力疾走し続けているから五月に一気にガクンとパワーダウンしてしまうのではないだろうか、というのが僕の考えだったりする。季節、気温や湿度の変化などの影響ももちろんあると思うが、頑張りすぎたら、どこかで休息をとらなければへばってしまって当たり前だと思う。

強引にポジティヴになる。

僕はどこかで「今年こそは……」的な気持ちになっている。だから、新年度になると特に気合を入れすぎてしまう傾向がある。そして、情けなさを敢えて隠さずに正直に言うと、新年度早々に燃え尽きてしまう。仕事中は、それがあからさまにバレてしまうと印象が悪くなるので極力平静を装って入るものの、本当は、ものすごくぐったりしていて、早くお風呂に入って、眠ってしまいたいと思っている。そして、2~3日は誰にも会わず引きこもりたいと。そのくらい社会から自分を隔離させないと回復できないのではないかとさえ思う。平静を装う演技に、これがまた精神力や体力を使うのが皮肉な話である。

では聞くが、年度末に気合を入れて頑張って、新年度に気合を入れて頑張って、毎年格段にQOLが向上していると断言できる人はどのくらいいるのだろう。「また、同じような年が繰り返されたな………」なんて毎年思わないだろうか。結果うんぬんではなく、頑張っている自分が好きな人は別だ。そういう人は間違いなくQOLは高い。QOL、つまり生活の質とは給料など必ずしも数値化できるものとは限らない。自分の中で生活の質が高ければ大成功なのだ。

頑張るな?

どうせと言っては何だが、同じような年が繰り返されるのが前提だとしたら、無理に自分を奮い立たせ続け過ぎる必要はないのではなかろうか。頑張りすぎる必要はないのではないだろうか。火事場の馬鹿力という言葉がある。ピンチの時に思いがけないパワーを発揮することだ。人間ってすごいよね、と思うかもしれない。というか、思う。だが、そんな秘めたパワーがあるのなら、何故それを常に使うことができないのか。常に、火事場パワーが使えたら便利ではないだろうか。

理由も単純で、そんなことをしたら疲れ切ってしまうからだ。そして、あれはすべての能力がパワーアップしているように思えるが、実はそうではない。有事の際は、あれこれ余計なことは考えている暇がない。だから、思考プロセスも、おそらく大幅に削ぎ落されている。生き残るために、本能的に、ものすごくシンプルに物事を判断している。そして、有限のパワーを瞬時に最大限まで引き上げているのだ。だぶん。

優しく言えば「火事場の馬鹿力」とは「粗削りで大胆だけど、細かい配慮が足りず、持久力がない」という状態を指すと思うのだ。たとえば、生きるか死ぬかの瀬戸際では、かすり傷を気にしている場合ではない。だが、生きるか死ぬかという程の状況ではない時は「かすり傷が致命傷になることだってあるよね」という思考になるので、悩みが増えるのだ。そして、必ずしもその考えが悪いわけではない。粗削りで大胆だけど、細かい配慮が足りず、持久力がない状態を続けるのはQOLを高めるという意味では、あまりお勧めはできない。そういうのは、いざという時だけで良いと思う。

火事場の馬鹿力は比喩のつもりで書いたが、つまり、フルパワーで無理に気合を入れて頑張りすぎると、疲れちゃうよ、と言いたい。ただ「頑張るな」と言っているわけではない。四の五の言わずに全力で成し遂げたい何かがあるのなら覚悟を決めて全力で突き進むしかないのかもしれない。「命に代えても………」という時は、だ。但しそれを永遠にする必要はないと言いたいのだ。理想やプライドも大事なのだが、僕の望みとしては、あなたに燃え尽きて欲しくないのだ。

ウサギとカメという話がある。走るのは早いが、昼寝をするウサギ。遅いけど、着実に進むカメ。どっちのタイプでも構わないのだが、僕としては、双方にゴールに辿り着いて欲しいと思う。志半ばで倒れないで欲しいと願うばかりだ。

怠けすぎ?

「頑張らなくてもいいんですね。怠けてもいいんですね?」と思う人もいるだろう。半分正解で、半分間違いだ。頑張る必要がないときもある。頑張る必要があるときもある。怠けた方がいい時もある。怠けてはいけない時もある。手を抜いたり、息抜きしたりするのは、実は必ずしも怠けではない。それは戦略だ。知力だ。それらを悪く解釈する必要はない。ただ、怠けすぎていると、たぶん人生の質は向上しない。これもまた事実なのだろう。そして、嫌われると思う。

パラサイトに憧れる人も一定数いるだろう。僕も、そのタイプだ。だが、賢いパラサイトは絶対に宿主を殺したりはしない。宿主が存在しなければパラサイトできなくなってしまうのだから。そして人間はなんだかんだで社会的な生き物だ。受け取ることも大事だが、与えることも大事なのだ。与える側の人間がいなければ、受け取りたくても受け取れないのだ。そして、そういう絶秒なバランス感覚をお互い様と呼ぶ。自分が怠けることも大事かもしれないが、相手を敢えて怠けさせてあげることも、生存戦略的には間違いではないだろう。

いつも繰り返していることだが、本当に大事だと思うから何度でも言う。自分さえ良ければ良いと思わないこと。他人を犠牲にしすぎると、協力者も仲間もいなくなって、最後には自分一人ではどうにもならなくなったときに困ってしまう。だからこそ、お互いのために最善の策を考えて、みんなでQOLが高まる方法を可能な限り考えてみて欲しい。



  

《ココロセラピストTATSUMI さんの記事一覧はコチラ》