僕は小心者。
僕は小心者です。態度は大きいですが、小心者です。虚勢を張っているだけです。
えっと、自虐しているわけではありません。良いかどうかは別として「世の中は恐ろしい」って思っているからです。
人はそれを現実逃避と呼ぶ。
小心者が偉いって話じゃなくて、どちらかといえば過度なポジティヴは危険だよってことです。
一部のスピ界隈では「ネガティヴなイメージはネガティヴを呼び、それが現実になる」と言っています。
「現実にネガティヴな出来事があっても、ネガティヴなポイントにフォーカスしないことが大事だ」的な意見もあった気がします。
という話を僕自身がしていた時もあります。
ただね、誤解のないように言っておくと、悲しいことは悲しいし、寂しくなるようなことは寂しいんです。
泣きたいときは、どうしたって泣くんです。
「そんな(ネガティヴ)な現実はなかった」なんて都合の良いようにはならないんです。
人はそれを『現実逃避』と呼びます。
「他人は他人」でも良いんですけど、隣の家が家事になったら「うちはうち、関係ないね」なんて思えるかってことなんです。
貰い火したら困るじゃないですか。大慌てで119番しますよね。逃げますよね。「知ったことじゃない」とか「ネガティヴなことにはフォーカスしないようにしよう」なんて思わないですよね。
というか、思わないでくださいね。他人が、もそうですが、自分が危険な目に遭いますよ。
無条件の平和なんてない。少なくとも今は。
世の中に無条件の平和なんてないんです。
何度も行ってきましたが、何度でも繰り返します。だって、超重要事項だから。
「今、自分がなんだかんだで生きていられるのは、誰かの犠牲の上に成り立っている」ということ。
満足いくほどの幸せじゃなかったとしてもですよ。
たとえば裸で暮らしてないですよね。その服、誰かが一生懸命、時間や労力を提供してくれているんです。「そんなこといっても、給料もらってるでしょ」とか、言いっこなしです。
じゃあ、誰も働かなくなったら、お金をたくさん持っていても意味なくないですか。上司がムカつくとか、部下が無能とか、変なシフトがキツイとか、サービス残業が多すぎるとか、有給休暇取れないとか、そんなたくさんの犠牲の上に成り立ってるんですよ、仕事って。
食事だってそう。黙っていたら出てこないですよ。プラス思考したら、寿司が出てきますか。来ませんよね。作ってくれる人がいなくちゃ。素材を集めてくれる人がいなくちゃ。
平和じゃないんです。実はカオスなんです。平和かもしれないけど、その平和は無条件ではないんです。そして今が平和だとしてもそれが永続的に無条件で続く保証なんてないんですよ。
みんなが日々、試行錯誤しながら、直接的ではないにしても「どうやったら、世の中が良くなるんだろう?」「どうやったら生活が豊かになるんだろう?」「どうやったら平和になるんだろう?」「自分が少しでも誰かの役に立てば良いな」なんて願いながら、生活してくれているんです。
僕も、時々、つらくなったり、悲しくなったりすることもあります。でも、そのたびに思うんです。その瞬間そのものはネガティヴに支配されそうになりますが、ふと我に返ると「嗚呼、僕は誰かによって生かされているんだな…」って思い出すんです。ありがたいです、本当に。
たとえば、大げさではなく、あなたがこの記事を真剣に読んでくれているから、僕は生きていられるんですね。大切な時間を使って読んでくださってますものね。本当にありがとうございます。
今、あなたが平和を感じていてくれているかどうかはわからないです。明日の自分がどう感じているかもわかりません。そう、無条件の平和なんて約束されていないんです。
でも、平和な日だってあるんです。そして、それは世界中の誰かの犠牲だったり、努力だったり、誠意だったり、善意だったり、そういうものの影響を受けているんです、きっと。
決してネガティヴという概念を、存在そのものを否定して、ポジティヴ思考していたら勝手に平和が訪れたわけではありません。
ネガティヴなことをたくさん考えて、常に直視し続けて、つらくても悲しくても耐え続けろなんて、言ってませんからね。受け止められる器って人それぞれ違うし。僕は小心者だし。
「平和は私が作ってるのよ!」って傲慢になられても困るんですけど、自分も社会の一員であり、自分も誰かの幸せに影響を与える一人であるという意識は少しは持っていた方が良いと思います。「ねばならない」って義務付けちゃうとつらくなるけど。
一方で、自分が負の連鎖を生み出してしまう可能性も否定しないでくださいね。人生に失敗はつきものですし、お互い様という言葉もあります。
でも「私さえ良ければ、他の誰がどうなったって知ったことじゃない」とか「私はカヨワイひつじです。だから(無条件で当然の権利として)私を守ってください。優しくしてください」とか、思わない方が良いです。与える量や貰う量に差があったとしても、自分にできる範囲の貢献はし続けて欲しいですし、受け取るときは素直に感謝して欲しいです。
世界の平和、心身の平和。
平和は、作るんです。存在して当然ではないんです。
誰かが無条件で与えてくれるだろうから、自分は何も与えずその恩恵にだけあずかろうなんて思わないことです。そういう人が増えちゃうと、循環しなくなっちゃうから。
奪う者と、奪われるだけの者だけの関係しかなくなったら、世の中終わりですよ。
「でも、私は無能。何の役にも立てない。どうせ私なんて……」と思わないでください。
その発想は正直、何の役にも立ちません。むやみやたらに自分の存在を否定しないでください。自己肯定感を高く持てとか、そういう難しい話をする気はありません。モチベーションをあげなさいとも思いません。
「どうせ私なんて……」という言葉を言わないという誠意を見せてくれるだけで、周囲の人の気持ちが沈む率は大きく減らせます。
絶対とは癒えませんが、たとえば「どうせ私なんて……」と思えるような、抱えきれないほどの何かが起きたのであれば、それを信頼できそうな誰かに話してみてください。
無条件で永続的に守ってもらえるなんてことはないですが、そこから脱するヒントになるかもしれませんし、可能な範囲で助けてもらえる可能性だってあるんですから。
ちなみに、「無条件」という言葉を使いましたが、無条件で何かを与えてもらい続けるのは、どうかと思いますが、「無条件」で何かしらを与え続けられるなら、それは良いことですからね。
小さなことで言えば、あいさつ。
笑顔で「おはようございます」「おつかれさまです」って言い続けられれば、裏も表も損得もなく、きっとそれは世界を動かす潤滑油になると思うし。
「あいさつして損した」なんてこと、よほど酷い人に会わない限りないですしね。
無条件ではない平和。あなたの小さな言動の積み重ねが、明日の平和につながるんですよ。
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