ココロセラピストが語る! 『自己肯定感気にしすぎ症候群』とは? ~自分にレッテルを貼りすぎないで~

自己肯定感

最近、巷ではやっている自己肯定感とは?

ここ数年、よく耳にする言葉。それは『自己肯定感』。『ありのまま幻想』の亜種と言っても不思議ではないでしょう。自己肯定感とは、すなわち「ありのままの私を肯定する感覚」のことだからです。

 

僕は『自己肯定感』という言葉を否定しているわけではない。

さっそく毒づいてしまいましたが、僕は自己肯定感という言葉そのものを否定しているわけではありません。僕は、かねてよりセルフイメージと自分の人生の関係性に着眼し、それをずっと語ってきた人間です。セルフイメージと人生に重要な関係があるのであれば、当然自己肯定感だって、とても重要な存在ということになります。

 

「私、自己肯定感がどうしても低いんです!」

自己肯定感が高いとよくて、低いと良くない。なんだか、そんな風潮がある気がしてなりません。ちなみに僕はコンプレックスの塊です。でも、生きてます。

平成以前は、プラス思考という言葉が流行りました。マイナスになることを考えず、なんでもなんでもプラスに考えればよいという考え方です。
でも、無理に自分自身の心にプラス思考をしていると、つらくなってくるってだんだん理解できる人が増えてきました。

なので、僕も無理なプラス思考は勧めていません。マイナス要因から目を背けずに勇気をもって向き合う。だからと言って、恐怖や不安を力づくで打ち消せとは言っていないんです。

マイナス要因を冷静に見られるということは、リスクを事前に予測して対策を練ることができるということです。マイナス要因から目を背けていたら、とんでもないことになってしまうのです。だから『ヒヤリハット』なんてものが存在しているわけですよね。マイナスな事象から生まれた立派な存在です。

自己肯定感が低いと言っている人がいても不思議ではないし、それはそれで良いのです。自己肯定感が高過ぎる人は、それはそれで結構ですが敵が増えそうな気もします。嫌われる勇気がどうとか言うかもしれませんが、孤立したら生きていけません。少なくとも人間社会では。

それなら、若干自己肯定感が低いくらいでも問題ないのかもしれません。卑屈になったら困りますが、謙虚になれば、相手の良いところが気づきやすくなります。相手の長所に目を向けられる人は好かれます。

そもそも自分という存在はオールマイティなはずはないのです。だからこそ、誰かの長所に助けてもらうことも多いんです。誰かの長所に気づくことができて、感謝のレベルに達したら大したものだと思います。

自己肯定感のことをやたら気にしている人がいます。自己肯定感という言葉を知っていることと、自分を肯定しようという気持ちは大事ですが、なんでもかんでも自己肯定感に結び付けて、自分にレッテルを貼り続ける人を僕は危険だと思っています。

そういう人を僕は 『自己肯定感気にしすぎ症候群』と呼んでいます。

自己肯定感を気にしすぎている人の中には、周囲の目を気にしすぎている人が多い気がします。結局のところ、他人に褒めてもらえないから自己肯定感が低いとか、他人にダメ出しばかりされるから自己肯定感が低いとか、他人に高評価されたり尊敬されたりしないから自己肯定感が低いとか、他人の目を気にして自己肯定感を評価していますよね。

自分で自分のことを肯定できないから、誰かに肯定してもらおうと思っている時点で自己肯定感でもなんでもないのです。自己肯定感が低いのではなく、自分がないのです。

と、辛口になってしまいましたが、自己肯定感が低い人を陥れたいわけではないんです。もしかすると、強烈な他者の影響によって、追い詰められてしまった結果、あなたの大切なアイデンティティが崩壊してしまった可能性もありますからね。

 

客観的になれ。

僕自身の話をします。
僕は、勉強もダメ、スポーツもダメ。外見もよくありません。一芸に秀でているわけでもありません。ここで重要なのが環境です。

すごい人が褒められるのは別にいいんですよ。仮に自分に優れた点があれば容赦なく褒め叩いてもらいたいですから。自分は褒められたいのに他人が褒められたらムカつくとか、わからなくはないですが、それって変ですよね。ただ、願わくば、僕より誰かの何かが優れていても、それと比較して、僕を見下したりバカにしたりしなければとりあえず良いわけですよ。

あからさまに見下されたりバカにされたりしなければ、少なくとも存在否定はされていないので、等身大の自分をじっくりと見つめなおして、歩み遅くとも自分なりに成長していけば良いのですから。

集団に属して自己評価が低くなってしまう人もそうです。マウントを取ってくる集団に属していたら、それはもう自己肯定感はガリガリ削られますよね。でも、自己否定しなければならいほど自分がくだらない人間かというと決してそういうわけではありません。

誰かを例に出すと気が引けるので自分の例を出しますが、僕も超がつくくらい酷い集団に属していたことが何度もあります。はっきり言えばイジメですよね。僕にまったく非がないかというと、決してそういうわけではありません。でも生きているのが嫌になるほど追い詰められる意味もわからないわけです。

そうすると転職をしたりするのですが、そうすると運気が変わるんですね。仕事を辞める直前って自分が無力だったり、逃げモードだったりに見えてしまうかもしれません。でも、いざ退職すると気が楽になります。次の職が見つかるまでは苦労しますが、再就職が決まれば少なくとも選び方を間違えなければ、自分自身が活躍できることもあるわけです。

では僕がパワーアップしたから本領活気したのかというと、決してそうい事でもないんです。単に環境が変わって、僕を否定する人が減っただけです。
自分自身は変わってないのに、自己肯定感は上がるんですよ。意味不明ですよね。

と、思っていると裏でこそこそ派閥を作って謀反を起こされた……なんてこともあります。そうすると、酷い目にあわされるので僕の自己肯定感は音を立てて崩れ落ちるんですね。でも、少し前までの自分は自己肯定感が高かったわけですよね。

こんなふうに自分史を冷静に振り返ると、自己肯定感が、どうとかいちいち考えなくても良いのかなって思うようになると思うんです。

自己肯定感が低い人に時々出会いますが、環境が変わると活き活きしていた、なんていう場面を僕は幾度となく見てきました。適性や相性はあるかもしれませんが、そもそも、人はパーフェクトではなく常に未熟なんです。自分が未熟であることを責めなければ、大きな悩みにはならないんです。それに人生には運も大きく影響しますからね。

ただたとえば職場に恵まれなかったとして、ひたすら転職を繰り返すのが良いわけではありません。それはそれで経験になりますが、ある程度は頭を使う必要があります。自分自身は大きく変化していなくても、時代の流れだったり、自分の失敗パターンだったり成功パターンを知る必要もあります。

また、周囲の評価にいちいち流され過ぎないことも大事です。相手の評価が必ずしも正しいとは限らないからです。明らかに人格否定され続けるような集団に属してしまったと気づいたら、自己肯定感が低いとかなんとか言ってないで、周囲が少なくとも自分のモチベーションを下げているのだという客観的な視点を持つことも必要です。

自分が誰かを不快にさせている可能性も含めて。熟考して、そこに未来がないと思えば自己肯定感が低くなったとか言っていないで、別の環境に移動すれば良いんです。

 

自己肯定感がどうとか、振り回されないために。

自己肯定感をいちいち、誰かの影響を受けて変化させるよりも、冷静な自分を心掛けましょう。あからさまに足を引っ張ってくる環境なら逃げる。それがベストです。

自分の長所に気づき、存在を肯定してくれる誰かがいたら、素直に感謝しましょう。そして、あなた自身が誰かを不必要なほど誰かと比較してディスったりは絶対にしないことです。その人はその人なりに、頑張って生きているのですから。

ただ、明らかに環境に馴染めなさそうであれば、追い詰めるのではなく、否定するのでもなく、別の選択肢があることを教えてあげることも必要かもしれません。

僕は、すばらしい人間ではありません。でも、誰かに人格否定されるほど酷い人間でもありません。たぶん。
あなたは、自分が思っているほどダメな人間ではありません。逆に過信するほど優れているわけでもありません。だって、人間なのだから。神様じゃないんですから。

他の人が自分より劣っていようが優れていようが、その人はその人です。のびしろがあれば、伸ばしてあげて欲しいし、明らかに間違って事をしていたら注意してあげて欲しいです。そして、その人はその人なりに頑張って生きていることは認めてあげて欲しいのです。

少なくとも、僕やあなたが、自分を必要以上に責めない。他人を必要以上にディスらない。これを徹底すれば、自己肯定感がどうとか、振り回され過ぎずにニュートラルに暮らせるのではないかと思います。

人生は絶好調の時もあれば不調の時もあります。才能があろうとなかろうと、生きる権利をもっています。無理に卑屈になったり傲慢になったりしなくても大丈夫ですよ。
僕は僕、あなたはあなたなのだから。

 

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