イジメの定義?
イジメというと幼稚園や学校などで子供同士がするものというイメージがあるかもしれません。
ネットで検索すればwikiなどでイジメがなんたるかというページも見つかりますが、難しくてよくわかりません。
結局イジメってなんなのか。
少なくとも僕には漠然としすぎてよくわからないのです。
よくわからない存在、イジメ。
でも、イジメの定義を考えるとある問題が出てきます。
定義を具体的にすればイジメがなんなのかがわかりやすくなると思います。
思いますが、逆に言えば定義に含まれない微妙なモノに関してはイジメではないということになってしまう可能性もあります。
つまり「これはイジメとはいえないよね?」と言えれば、誰かがイジメだと思ってもイジメに該当しないので止める事が難しくなってしまうのです。
ではイジメは敢えて定義を作らない方が良いのかというと、決してそういうことではありません。
アバウトすぎると極論を言えば「イジメとは幻想だ」と言って終わってしまうからです。
頭ガチガチがイジメを複雑化させている?
僕たち人間は複雑に考える事ができます。
逆に言えば、なんでも複雑に考えてしまう癖もあると言えます。
だから、なんでも理屈をこねたくなってしまうのです。
世間を賑わせているクレーマーたちなんて、まさに理屈をこねますよね。
あからさまに理不尽だろうとなんだろうと容赦なく、自分に都合の良い解釈をして相手の立場や人格を考えず、理屈をこねて言い負かそうとしてきます。
イジメの定義を考えることにしても、クレーマーの心理にしても考えてみれば、理屈をこねることにフォーカスしすぎてしまっているわけです。
正義とは何か。
悪とは何か。
イジメとは何か。
もちろん、それらを考えることは大事です。
もちろん考えて良いのです。
ただしそれらは議論や討論が目的ではいということを僕たちは忘れてはいけません。
頭がガチガチになりすぎると、大切な事を見落としてしまうのです。
これは僕自身への戒めも込めて書いています。
僕は誰かを陥れないなどとは思っていません。
もちろん、あなたも思っていないと思います。
でも、気をつけないと頭がガチガチになってしまいすぎることで良からぬ方向に向かってしまう危険性があるということを、今、改めてこの場で叩きこみましょう。
力こそ正義……になっていませんか?
結局のところ、そうやって理屈をこねているうちに自分自身が加害者になってしまっていた、という人も多いのではないでしょうか。
どういうことかというと、自分の正当性を主張するために相手を徹底的に論破して言い負かすことが目的になってしまっているからです。
それはつまり、何はどうあれ相手を言い負かせれば正義が証明されるということになるのです。
それって「力こそ正義」という理屈ですよね。
クレーマーを思い出してみましょう。
意味不明な理屈であっても相手を言い負かし、屈服させれば土下座させたり、無茶苦茶な事ができてしまったりするわけです。
でも、これってイジメなのです。
これをイジメと言わずして何をイジメというのでしょうか。
自分より立場の弱いものを陥れているわけですから。こんな卑劣な人が正義なはずないのです。