釈迦の手のひら
先ほど『ドラゴンボール』の話をしましたが、今度は『西遊記』(中国の昔話)を思い出して下さい。
そっちの主人公、孫悟空は傲慢で自分はすごいと思い込んでいて調子に乗っていたわけですが、自分が瞬時に長距離移動したと思っていたら、実はお釈迦様の手のひらの上を移動しているだけだったというエピソードがあります。
まさに、そんな感じです。
向上心を持つのは良い事ですが、最強とかナンバーワンとか、あるいは完璧にこだわる必要って、実はそんなに無いと思うのです。
度を超えると単なる執着になってしまいます。
こういうと「TATSUMIさん。あなたは私は無能だと言いたいのですか? バカにしてるんですか?」という人もいそうですが、まったく違います。
むしろ無能でも無ければバカでもないからこそ、冷静に自分を客観視して欲しいのです。
最強に固執すると、今度は自分が最強では無くなることに恐怖を覚えます。
あるいは結局最強にはなれず、自己評価不安と自己嫌悪に陥ります。
挙句の果てに自分の人格や存在そのものを否定し始めます。
僕は、言い切ってしまいますが、この考え方を愚かだと思うのです。
そもそも幸せと最強はあまり関係ありません。
完璧である必要もありません。
誰かを愛し、愛されれば良いのです。
別に異性に何人モテたから偉いとか、そういうことではありません。
万人ウケしなさいと言っているわけでもありません。
良いですか。
そもそも人間は相性があるわけです。
出会った人全員と兄弟の杯を交わせますか。
無理ですよね。
全員と親友になれますか。
無理です。
自分より、容姿端麗で知的でチヤホヤされる人が現れたらなんだかムカつきませんか。
人間ってシンプルですが、同時にややこしいのです。
つまり万人ウケが不可能であれば、万人に好かれる事も無ければ万人に崇拝される事もなく、万人に尊敬されることもないのです。
そんなのちっとも『最強』ではありませんよね。
でも、良いのです。
あらゆるものにいちいち劣等感を持ち、誰かと何かを比較して苦しむ必要なんかないのです。
苦手な事があっても良いし、上手くいかない事があっても良いのです。
場合によってはバカにされることがあったって良いのです。
そのような環境の中で思考錯誤しながら、自分にとって活躍できる場を見つけたり、自分に向いたスキルを見つけて伸ばしたりしていけば良いのです。
地球上のすべてをライバル視していたらキリがありません。
突然ですがクイズです。
勝者が勝者で在り続けるためにはどうすれば良いですか。
ひたすら辛い修行を積む事ですか。
それも悪くはありませんが、違います。
才能ですか。
それもちょっと違います。
正解は、負け戦をしないことです。
勝てる戦いの場でしか戦わなければ常に勝者でいられるというわけです。
自分向きのフィールドを開拓し、自分の特技を伸ばしていく。
うまくいけば、そこでは最強になれるかもしれません。
でも、それって厳密には限られたフィールドだけの話なので最強でも何でもないですよね。
つまり、最強じゃなくたって活躍できるということなのです。
ある分野では誰かに勝てなくても、だからといって人生の質が下がるわけでも何でもないのです。
そこで誰かが人格否定してきたり、バカにしてきたりしたら、その人は仲間ではありません。
むしろ敵でありエナジーヴァンパイアなので関わらない方が良いくらいです。
だから相手にしなくて良いです。
ただ自分より優れた人が周囲に多い場合、自分がダメ人間であるような感違いをして勝手に自滅していく人も多いです。
でも、それは単なる思い込みですからね。
相手の長所を素直に認められる器量を持てる人の方が僕は好きです。
僕の好みはどうでも良いかもしれませんが、結果的に、そのくらい心に余裕がある人の方が幸せになれると僕は思うのです。
最強なんか目指さなくて良いのです。
時には努力も根性も必要かもしれません。
でも、今の現実が、今の環境が人生のすべてではありません。
場合によってはフィールドを変えれば良いのです。
年齢とか、その他諸々しがらみに意識を奪われる必要もないのです。
人はみんな違う個性を持った尊き存在なのです。
焦らず、誰かと比較せず、自分の人生を如何に向上させるか。
そちらにフォーカスして下さいね。
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