ココロセラピストが語る!『本当に不幸な世界に生まれてしまったの? ~惨めな人生を歩んでいると勘違いしている人たち~』

世界が不幸なのではなく……

人は誰しも幸せに行きたいと願うものです。
でも、幸せって何だろうと考えても、いざ考えると浮かばない。

せいぜい、地位や名誉やお金や異性にモテることくらい。
そのいずれかでも手に入っていれば幸せかもしれないけれど、どれもないと惨め。
なんと不幸な世界なのでしょう……。

いいえ。
不幸な世界にあなたが存在しているわけではありません。
絶対とは言い切れませんが、同じ世界に住んでいても一定数はきっとめちゃくちゃ幸せだと思うのです。
そして一定数はまあまあ幸せだと思うのです。

もちろん運もあると思いますが、運だけで不幸になってしまう人というのは、そんなに多くはないのではないかと僕は思っています。

 

幸せの定義? 不幸の定義?

幸せとか不幸とかいう話をする以上は定義が必要かなと思います。
ではさっそく教えましょう、と言いたいところですが、残念ながらそうもいきません。

辞書を引けば「幸せ」も「不幸」も意味は書いてあると思いますが、それは厳密には定義ではありません。
もったいぶらずに言いきってしまうと、幸せの定義も不幸の定義も自分で決めて良いのです。

たぶん、それを知らない人は無意識に定義をアバウトながら決めてしまって自動的に「私は幸せ」とか「俺は不幸だ」という感じで認識しているのです。

もちろん幸せの定義はある程度はアバウトで良いと思います。
僕は比較的、幸せの定義というか条件のハードルが低いので、毎日それなりに幸せを感じています。

具体的に言うと「衣食住が確保されている」ということです。
「そんなの当たり前じゃないですか?」と思うかもしれませんが、これはかなり重要なことなのです。

僕は若い頃、家を追い出されたことがあります。
詳細は省きますが、そうなると衣食住に本当に困ってしまうのです。
結果的に親友に助けて貰って最悪な事態は免れました。
もしもあの時、親友が助けてくれなかったらと考えると今でも背筋が凍ります。

人によってはそういう僕の経験を鼻で笑うかもしれません。
でも、僕はその経験以降は、衣食住があるだけでかなり幸せを感じられるようになりました。

白い米と味噌汁が一日に一回でも食べる事が出来たら本当に幸せなのです。
屋根があって布団があってお風呂にも入れたら本当に幸せです。

衣食住があっても、家族や他の誰かにイジメられていて精神的に居場所がないとすれば、それは確かに不幸かもしれません。
でも、極端な事を言えば、ひきこもれる部屋があれば、それはそれで幸せな気もします。

ちなみに僕は「だから、地位も名誉もお金も異性にモテることも望んでいない!」というつもりはありません。
ウェルカムです。
別に「衣食住があれば他に何も要らない!」なんて一言も言っていませんから。
ただ、もし、それらを引き寄せる事が出来たら「もっと幸せ!」と思えるとは思います。
でも、ガツガツして追い求めるほどでもありません。

もっというと、本当に幸せそうに生きていたら、ステキな仲間たちも増えて来ると思うので、そうすれば、社会的なステータスだってお金だって異性だってどんどん集まってくると思います。
それらを受け取る心の器さえきちんと用意しておけば。

さて。次に不幸について一緒に考えてみましょう。
これも僕の例ですが、僕は自分自身や大切な仲間たちの心身が弱ってしまったら不幸だと思っています。

でも、仮に不幸だと思ったから人生が終わるのかというと決してそういうことではありません。
自分が弱っていたら、休むなり栄養を取るなりして回復すればOKです。
仲間たちの心身が弱っていたら、完全にとはいかずとも、そっと手を差し伸べて窮地から少しでも引っ張り上げてあげられれば復活の可能性が高まります。

何を言いたいかというと、不幸を不幸のままでしておくから不幸が続くということです。
仮に今、不幸でも後に不幸を脱却できればそれはそれで良いのかなと思うわけです。

不幸を経験したからこそ幸せを感じられることもあるにはあるのです。
でも、だからと言って不幸を経験しなさいとは僕は思っていません。
わざわざ不幸を経験しなくても済むなら、不幸を経験なんかしなくて良いです。