好きなことでも嫌になる?〜末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.37

「好きなことをして生きていける」かどうかは、できない自分をいかに愉しめるかということにかかっているのかもしれません。

≪ 好きなことが嫌になる ≫

「利他的自己実現」を主軸に、そのためのカギとなることについてこれまで述べてきました。心から好きなことや喜びを感じられることを通して、愛をわかち合う、ともに「真の癒し」を経験する生き方のことを「利他的自己実現」と呼んでいます。

「好きなことをして生きていくことは可能」というようなことはよく言われることで、実際その通りだと思いますが、非常に難しいことのように思う人のほうが多いのかもしれません。
親が子に「好きなことをして食べていけるわけがないんだから」と言って、安定した職に就くように説教するといったようなこともあるようです。

ここで、二つのことが言えると思います。一つは、自分が「好きなことをして生きる」ということができていないと、子どもや他者にも同じような目線でしか見ることができず、人の持つ可能性や才能に気づきにくい(勝手に相手を「できない人扱い」してしまう)ということ。もう一つは、「食べていけるかどうか」は全く重要ではないということです。

当然のことなのですが、「好きなことをする」と言っても、そのためのたくさんの「やるべきこと」があります。これについては以前PART.33で述べました。
鍛錬すること、必要なことを地道にコツコツやるということを放棄しておきながら「好きなことを仕事にする」などあり得ないことです。むろん、苦しみながらする必要はありません。「やるべきこと」に対して、つらいことだと思いながらする自由もあれば、いかにこれを楽しむかという観点で取り組んでいく自由も与えられています。

自分の可能性を否定し、「やるべきこと」をやらず、快・不快の感覚だけを重んじて、「嫌になったからもうしない」とうち捨ててしまったら、将来に希望を持ち、「好きなことをしたい」と夢を持っている人の、そのときの気持ちはわかっても、「どうせ無理」だとか「できるのは特別な人だけ」というふうにしか思うことができないのかもしれません。

非凡な人が夢を実現させ、好きなことをして生活していけるのは許せても、ごく普通の人(友人や家族)が生き生きと好きなこと(それも自分がしたかったこと)をして生活している姿を見ようものなら、心のどこかに痛みを感じずにはいられないのかもしれません。

けれどもそれは非常にばかげています。「非凡な人とそうでない人がいる」という見方がそもそもおかしいのです。どんなに優れた才能ある人でも、鍛錬し続けてきているはずです。
何もしないで「非凡さ」を発揮できる人などいません。さまざまなことをとことんやり続けてきたから——そして多くの人は地道に継続することを避けがちだから——「非凡」だというふうに見えるだけのことです。やるか、やらないかしかありません。ある日突然、別人のようになるだなんてことはないのです。

267796484

 

≪ 嫌になる理由 ≫

「嫌になったからもうしない」という思いには、エゴの罠が潜んでいるように感じます。
「好きなことをして生きていきたい」と思っていたけれど、「嫌」になったからする必要性がなくなった、だから夢を実現できないんじゃなくて、しないことにした。
本当にそうなのでしょうか。

大学生の頃取っていた書道の演習のクラスで、先生が「わたしは書道が好きだけれども、どんなに好きでも嫌になることはあります」と話していたことを今でも覚えています。
自分自身は書道を嫌いになったことはないけれど、嫌になるまで鍛錬していないからだろうと思ったし、先生のように、そうなってもまたやろうと思えるかどうか、そこが大事なのだろうと当時のわたしは思いました。