何故、日本では「火葬」が普通なのかな、と、最近考えた。
たぶん衛生的な面とかスペースの問題とかなんだと思うが、そもそもは日本だって「土葬」だったはずである。
それが「火葬」メインになったのは、いったいいつ頃からなのか。
私は個人的に「土葬」が一番いいと思っている。
死体を虫が食べ、バクテリアが分解し、土や生き物の養分となって循環していく。
まさに「土に還る」のが、この世界の自然の摂理だろう。
人間がこうした地球の生命サイクルから外れたことで、何か重大な影響があったのかどうかは、私にはわからない。
スピリチュアル系の人の中には、死者と話ができる人や大自然の中に棲息する神や精霊が視えるという人たちがいる。
私にはそういった能力がないけど、たとえば虫やバクテリアに分解されて土に還るのと業火で焼かれて灰になるのとどちらが嬉しいか、死者に尋ねてみたい気がする。
また、大自然の樹々や観ずに宿る神々や精霊は、土葬と火葬についてどんな見解を持っているのかにも興味がある。
我々はもともと、大地や樹々や水とともに生きる動物たちの一部であったはずだ。
むろん、そのおかげで、とてつもない災害に巻き込まれたり、飢えや寒さで死ぬこともあっただろう。
無力な自分たちを自然の脅威から守るために文明を発達させたのは、至極当然の成り行きだ。
しかし、たとえば火葬の法令化などに、いったい何の意味があるのだろう?
そこまで我々は、文明に支配されなくてはいけないのか?
朽ちて土に還るという選択は許されないものなのか?
墓なんか要らない。
でも、できれば虫やバクテリアに食われて、この身を大地の栄養分にしたい。
そんなふうに願う私は、どこかおかしいのだろうか?
分解されて大地の一部となった私の身体から、草木が芽生え、花を咲かせて実を結ぶ。
その実を食べて鳥や獣は生きる力を得て、繁殖し新しい命を産み落とす。
そしてまた、彼らも命尽き、大地に吸収されて次の命の糧となる。
このようにして、私たちの生命はこの星に還元されていくのだ。
ね、そう考えると、たとえ死後の世界がなくたって、「死」はすべての終わりではないのだ、と思えるでしょ?
「死」は、「私」の終わりなのである。
この世から「私」という存在が消えるだけだ。
だが、「私」を失った肉体は、限りなく巡り続ける生命のサイクルに組み込まれる。
まぁ、言ってみれば、それが私流の「輪廻転生」なのだ。
次に生まれてくる命は、もはや「私」ではない。
だが、その血脈に、かつて「私」であったもののカケラが混じっている。
こんなことを考える私は、ある意味、スピリチュアルな人々より遥かにロマンチストなのかもしれない。
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